死神犬コハク

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☆  これは、東京で最初のオリンピックがあった昭和三十九年(西暦一九六四年)の春に、浅草周辺で聴き取った証言の記録である。 ☆  ああ、あの犬。  嫌だわねえ。  怖い怖い。  時々ね、あそこの、ほら、ポストの陰から、こっちを見てるのよ。  うちは八百屋だから、野良猫が店先の魚をくわえて逃げるみたいなことはないけど、でも野良犬だって腹を空かせたら、店先から人参の一本もくわえていくってことも、ねえ。  それよりもお客さんが気味悪がっちゃって。商売の邪魔。うちの父さんなんて、あいつを見つけると、怒鳴りつけて追い払って、おい塩撒いとけって言うぐらいよ。  え? 死神?  そうなのよ、死神犬って、この辺りじゃそれで通るわね、そう呼ばれてる。  どうして死神なのか?  そりゃあ、ほら、見ればわかるじゃない。  あの姿。毛は薄汚れた灰色で、痩せて、犬のくせに陰気な顔つきで。鳴いたり走ったり活動的なところがなくて。いつでも、ひっそりと、何かをじいっと見つめてるでしょ。  いかにも死神っていうかんじ。思い出したらゾッとする。
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