4. 翔ける

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 開いたノートに力の抜けた手が放り出されていた。すぐ近くにペンが寂しく転がっている。傾けられた頭が呼吸に合わせてわずかに上下する。難しい顔をしているが、夢の中でも勉強に追われているのだろうか。  ことり、とカップを置く音に東がわずかに身じろぐ。寒そうに首をすくませて、またふっと力が抜けていく。ここまで無防備なところは見たことがないな、と思った自分が可笑しかった。俺が見たことのある東なんて、もともとほんの一部だけだ。知っているのは、いつだって真剣な表情。褒めると少しだけほころぶ口元。鋭く射抜くような眼差し―― 「何考えてるんだか……」   机の脇に丸めてあった薄い毛布を手に取り、軽くはたいた。少し埃っぽいかもしれないが、今この大事な時期に、ここで受験生に風邪を引かれるよりはましだろう。疲れた様子で寝息を立てているのに起こすのはなんだか忍びなかった。  少し傾いた身体にそっと毛布を掛ける。ずり落ちないように整えようとして、指先を反射的に引いてしまった。起こしてしまったかと思ったが大丈夫だったようだ。ほっと息をついて席へ向かう。 「わっ――――」  突然、身体が後ろへ傾く。強い力で腕を引かれていた。 「……東、起きたのか」  掴まれた手首が痛い。反対の手で指を剥がそうとするが、まったく動く気配がない。 「寝ぼけているのか?今風邪を引いたら大変だぞ。帰ったほうが良いんじゃないか」  力はますます込められる。それなのに東は、俺のほうを見ない。 「手、離して――」 「先生」  椅子が引かれる音が大げさに響く。慌てて身を引いたのは逆効果だった。そのまま後ろへ数歩下がるだけで、この狭い部屋は古びた本棚へと到着してしまう。手の甲がひんやりとしているのは、押し付けられたガラスの冷気か、込められた力に血の気を失ったせいか―― 「痛い」溜息と言葉が同時にこぼれる。痛いのは、手首だけじゃない。 「先生、俺――」 「東」 「俺、先生のこと」 「東!」  悲壮な声が自分のものだと思いたくなかった。マグカップの中に浮かんでいたものと同じ、情けない顔が正面に並ぶ二つの瞳にも映っている。 「離してくれ……頼むから」つぶやくようにしか言うことができなかった。 「……」  支えを失った腕がだらりと落ちた。それを見た東の顔が苦しげに歪む。
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