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07.もうどうにでもなってくれ
「緊急事態です」
さてなにごとか。朝宮の深刻な顔に、サロン・ド・テ・プランタンの面々はただならぬ雰囲気を感じて閉店作業を中断する。
飲食業の山場であるといえる土曜日をこなし、それぞれの顔に疲労を浮かべつつも全員朝宮を心配した。なぜなら彼があわただしいのはいつものことだが、こんなにも青ざめた表情をしているのは初めてだからだ。
つづいて彼の口からは不穏な言葉が飛び出す。
「もしかしたら、今日が私の命日になるかもしれません」
一同は一歩一歩、彼に歩み寄る。リゼが一番前に出た。
「朝宮さんが死んじゃうなんて、そんなのいやです。いったいなにがあったんですか」
「ああ、リゼくんはやさしい子ですね。あなただけは巻きこみたくはありません、しかし」
そして朝宮は顔の前で勢いよく手を合わせると、首がもげんばかりに頭をさげた。
「おねがいします、みなさん! このあと、姉さんの友達と合コンしてもらえないでしょうか」
その後、間。
「よーし作業にもどれ」
佐原がぱんぱんと手を叩き、だれもがなにも見なかったとでも言いたげに散っていく。
「ま、待ってください! あなたたちが来てくれないと、私が殺されるんです! その、姉に」
悲痛な叫びとともに手を伸ばす。作業の持ち場の関係で、最寄りには城二がいた。
「じゃあ、お線香あげにいくね」
前祝いならぬ前弔いとでも言いたげに、細い棒状のお菓子を口につっこまれる。線香にしては甘い。そもそも線香は食べるものではない。
しかめっ面でぽりぽりかじりつつ、つぎは不自然な動作で拭き掃除をやめない烏羽に視線を投げた。極力目を合わせないようにしているのか、顔の向きがえらく不自然である。
「烏羽くん」
「俺いそがしいので」
「リゼくん!」
「あ、あのー……。俺は明日も朝からシフトが入ってるから今夜は寝たいなって」
「店長……!」
「知らん」
朝宮がその場に膝からくずれおちるが、それでもみんな作業をやめない。むしろこの状況で邪魔になっているのは彼のほうなので、佐原のほうからひとこと「はよかたづけろ」と釘を刺す。
「おねがいします……。おねがいしますよ……。会費の四千円、全員分、私が持ちますから」
全員がふたたび手を止める。
さて算数のお時間である。四千円が五人分で二万円ですね。あの守銭奴朝宮が口にするような言葉とはとうてい思えず、もっとも目をそらすことに専念していたはずの烏羽がいちばん心配しはじめた。
「だいじょうぶですか朝宮さん。二万円あればいろいろ買えますよ」
「そうなんです。いろいろ買えるんです。二万円あればいろいろ買えるんです」
喉の奥から鳴き声を噛み殺す音が聞こえはじめ、ようやくみんな、これはどえらい事態なのだと理解した。
『ありえないったらないわよ!』
SNSのチェックで充実するはずの朝宮の休憩時間は、そう連呼する姉との通話で台無しになった。そもとも着信履歴を見てぞっとした。俗っぽい言葉で表現するなら鬼電。鬼からの鬼電である。
「なんなんですかもう? なんなんですかもう」
『あー、やっと出た。なにやってんのよもう』
「すべての仕事が正午に休憩時間をとれると思わないでください。こちらは飲食店なんです」
では、とここで電話を切れるはずがなかった。
『あんたとにかくさ、すぐに男を五人集められない? もうあんたの友達でもなんでもいいの。今夜の合コンの相手グループがドタキャンしやがってさあ。こっちはもう店も予約したし、メンバーも揃ってるっていうのに、ほんとありえないわ』
相当頭にきているのか、まくしたてるように一気に話されたあとで盛大なため息が聞こえた。
「いきなりそんなの無理ですよ。なんでもいいなら動物園のチンパンジーでも借りてくればいいじゃないですか」
『あらいいわね。チンパンジーってけっこう知能が高いらしいわよ。すくなくともあんたよりはマシだと思うわ』
電話の向こうでどんな表情をしているのか容易に想像がついた。反射的に謝って肩をすくめる。
『あんたの働いているところ、たしか男ばっかでしょ。暇そうなの何人かつれてきてよ』
「何人か、って。うちは小さい店ですから、私を入れてようやく五人です。それにみんな姉さんと違っていそがしいんですよ」
『ああ、じゃあもう相手側のひとりが自分の弟になったっていいわ。いいからつれてきて』
「話聞いてましたか? あ、ちょっと」
通話は一方的に切られ、わずか数秒後には店の場所と時間が送られてきた。現代のチャットアプリはなんとおそろしい。
自分がチンパンジー以下なら、姉はきっとゴリラである。強さとしてはおそらくそうだ。
さて困った。困ったのはいいが困りっぱなしで、夕方はどこかうわのそらで仕事をしていた。そして結局、閉店するまでみんなに言い出せずにいたせいでこうなってしまったわけだ。
「すみません、みなさん。とりあえずご飯を食べに行く感覚でいいんです」
申し訳なさそうにやや猫背になりながら、それでも朝宮は先頭をきって歩く。土曜の夜のアーケード街は浮かれきっていたが、こちらの五人組はあまり愉快な集まりではなかった。
帰りたそうにしている者、困惑の表情を浮かべている者、とにかく周囲の空気よりもあきらかにテンションが低い。
「ちなみにみなさん、合コン経験の有無は……」
朝宮は訊こうとしてやめた。ここでだれかが「あります」なんて挙手したら、ありがたいどころか気後れしてしまうだろう。いったい合コンとは具体的になにをするものなのか。こんなことなら、かつて誘われた数少ない機会に参加しておけばよかったと思う。世の男女入り乱れる飲み会では、往々にして男性の出費が多いことが気に入らなかったのだ。
店のドアを開けると、女性陣はすでに到着していた。いちばん奥の席に座る女性を見て、朝宮を除く全員が目をしばたたかせた。
「朝宮さんだ。眼鏡してない朝宮さんがきれいにメイクして髪をおろしてる」
状況説明ありがとう、とリゼの頭に佐原の手が乗った。紹介されるまでもなく、あれが朝宮の姉であるとすぐにわかる。彼女はこちらに気づくと、笑顔で手を振った。
「こんばんは。いきなりごめんなさいね」
昼間の電話とは打って変わって猫かぶりの姉に、朝宮はひどくげんなりしている。それでも彼は女性陣にほほえんで一礼すると、自分がつれてきた男たちにも着席をうながした。
「あらあら、ずいぶん若い子たちばかりの職場なのね。活気があってすてきじゃない。よろしくね」
朝宮姉につづいて、ほかの女性たちがはしゃぎながら手を振ってくれる。「よろしく〜」と、女性の声はある程度かさなると、ひどくありふれたハーモニーになる。つまり、個々の判別がつかなくなる。
「私は朝宮美月(あさみやみつき)。お察しかもしれないけれど、そこにいる眼鏡くんのおねーさんよ」
彼女が細い首をかしげてみせると、肩下まである髪の毛が豊かな胸の上に流れる。顔はそっくりでもしぐさや体つきが圧倒的に違うのは、男たちの目にはすこし奇妙に映った。
「すごい! やっぱりそうなんですね! 朝宮さんそっくりできれいですし」
「あらあらあら」
堂島リゼの長所でもあり欠点でもある正直さが、今回いい方向に転んだ。朝宮姉は目に見えて上機嫌である。朝宮弟はこころの中で盛大な拍手をおくる。彼の今日の目的はとにかく、姉を怒らせないで帰ることにあった。これはもはや合コンではない。
姉の接待である。
「えー! 美月ばっかり若いコとお話してずるーい! 私たちも自己紹介するよ」
というわけで朝宮姉をスタート地点にして、イチカ。ニイナ。ミハル。ヨウコ。四人の名前をひととおり聞いたあとで、男たちは一斉におなじことを考えた。覚えられる気がしない。
男たちも倣って自己紹介をする。なぜか全員がフルネームを名乗ってしまうが、女子のだれかが「面接か!」とつっこみをいれたところですこし場が和んだ。
そのまま勢いでドリンクを注文し、ひとまずは乾杯することに成功。しかし男たちが徐々に焦りはじめたのは、どう見ても合コン慣れしている女性たちのスキルである。
「佐原さんは背が高いんですね! 何センチあるんですか? 学生時代バスケ部だったでしょ」
「リゼくん未成年なんだ! オレンジジュースもいいけど、このソフトドリンクもおすすめだよ」
なんと彼女たちは名前を一発で覚えているのである。
それにひきかえ男たちは、『朝宮姉』以外の名前が理解できておらず、それが原因で話しかけられても萎縮しっぱなしである。もし下手に返事をして名前を間違えようものなら、失礼以外のなにものでもない。とくに相手が、こうして正確に名前を覚えてくれている状況では。
なかでもいちばん青い顔をしていたのは朝宮だ。彼らをここまでつれてきてしまったという責任もあれば、また申し訳なさもある。万が一『姉の接待』の失敗で彼らにとばっちりがいってしまっては、もはやサロン・ド・テ・プランタンに居場所はない。
まずはなにか喋らなくては。
「えっと、その……。烏羽くんはバイオレットフィズがお好きですね」
「え? まあ好きですね」
烏羽が「なにをいまさら」と言いたげな目でうなずいた。その目を見ながら「ああしまった」と思いつつ、「私はモヒートが好きなんです」といらん情報を披露する。
なぜここにきて男同士で喋っているのか。
「へえ! 烏羽くんておしゃれな飲み物が好きなんだね! クールだしすてきかも」
お、いいぞそこの女性。名前は忘れたけれど。こちらの話題にうまくのっかってくれた。
「はい、そうなんです。烏羽くんはこう見えてかなりおしゃれさんなんですよ。ねえ烏羽くん」
だからどうして、そこで彼に返すのか。
バカ。おバカ。自分を責めつつ、ほかのみんなはどうしているのだろうと、まずは城二に視線をやった。
「パンケーキ。あと、鳴門金時のハニーバター。それと特製いちごソースのバニラアイスに、チョコバナナワッフル」
たしかに食べ放題コースである。しかし、それをひとりで全部食べるつもりだろうか。彼の対面に座っている女性がやや引きつり笑いをうかべているが、気にする男でもないだろう。
リゼと佐原はふたりで楽しく会話中。いや、だから、ここで知り合った女性たちとおしゃべりをすることがこの会合の目的なのですが。
朝宮は目に見えないものは信じない主義だが、それでも『殺気』はこの世に存在すると確信した。いま確信した。その冷たいエネルギーの発生源を確認するのもおそろしいのでスマートフォンを握る。案の定メッセージがとどいた。
『たしかになんでもいいからつれてこいって言ったわよ。でもちゃんと合コンだって説明したのかしら』
その後怒りのスタンプが連打される。ふだんは男に送っているのであろうかわいいうさぎのキャラクターが、ほっぺたをふくらませながら自分に明確な殺意を向けている。
『セツメイズミ』
動揺のあまり変換に失敗した。電報かこれは。
『もういいから、あんたのとなりに座ってる子は何歳なのか教えて』
おそらく烏羽のことを言っているようで、『よく知りませんが私よりは年下です』と送信。送信して、直後に後悔した。ひどくいやな予感がする。
「うばくん」
これは姉の、よそゆきの、さらにその行く先で一狩りするときの声。
思いもよらず名前を呼ばれて、烏羽は首を跳ね上げるようにして反応した。
「バイオレットフィズが好きなら、パルフェタムールをためしてみない? すごいのよ、喉が焼き切れそうになるの」
裏返した手首に顎を乗せて、朝宮姉は肩と首と顔にそれぞれ絶妙な角度をつくる。弟の予感はまさに的中で、百戦錬磨の遊び人である姉はこれから烏羽を落とす気でいるらしい。
弟してはそんな姉の姿は気色悪くて見たくないし、仕事仲間としてはそんな彼女に翻弄される烏羽も見たくない。見たくないことだらけだが、ここは接待として、申し訳ないけれど犠牲になってください烏羽くん。
だがそれも杞憂に終わる。「べつにいらないです」と抑揚もなく早口で言い終えた烏羽は、顔を真っ赤にしながらそのままトイレへ消えてしまった。うすうす勘づいてはいたが、彼は女性とプライベートで接するのがどうも苦手らしい。お客様と「仕事で」接するときは割り切っているようだが、この様子を見るとふだんの彼は仕事ができすぎ君である。
「ああー! 烏羽くんったらトイレを我慢していたんですねー」
ひどい棒読みになってしまったが、この結果にはいろんな意味で安心した。姉から舌打ちが聞こえた気がしたが、なにせ見えないものは信じない主義なもので。
「おまたせいたしました。パンケーキと、鳴門金時のハニーバターと、特製いちごソースのバニラアイスと、チョコバナナワッフルでございます」
すべてをかかえた店員がやってきた。二人体制で。まさか一度にできあがってくるとは思わなかった。
「あ、全部僕です」
しかし店側も、それを一度に食べるやつがいると思わなかっただろう。サロン・ド・テ・プランタンでは日常になってしまったが、このシーンに慣れていないみなみなさまは一斉に顔をひきつらせてしまわれた。
「いただきまーす」
まあ、ご飯を食べに行く感覚でついてきてと言ったのは私ですし。なにも言えない朝宮。
「すみませーん、烏龍茶くださーい」
これはリゼ。
「俺もハイボールくださーい」
これは佐原。
「もう、ふたりとも。呼び出しボタンあるよ」
そこへかわいらしく割って入る女性。ナイスプレイである。どうせリゼと佐原はまだ男同士で盛り上がっていたと思われるのでほんとうにナイスである。名前は忘れたが。
「わあ、俺ったら。大声出しちゃった」
うぶなかわいげのあるリゼに、女子たちの注目が集まる。未成年の男の子はめずらしいのか、彼女たちはまるでマスコットのようにリゼに接しはじめた。これはいい流れかもしれない。
「リゼくんかわいい!」
「大学生かな? どこの大学に通ってるの」
「お姉さんたち看護師なんだよ」
「波止場の近くのクリニックで働いてるの。泌尿器科だからいろいろ見慣れてるよ」
リゼが一瞬「なにを」という顔をした。これはまずい。下ネタの流れになりそうな気配を察知したモンスターペアレントはほかならぬ朝宮自身であった。
「やめましょう! この話」
今度はその場にいた全員が「なにを」という顔をした。しばらくして彼の言いたいことを理解した女性のひとりが、気まずそうに口を開く。
「いや、見慣れてるってのは、尿路結石とかの痛みをともなう患者さんの話で……」
むしろお前がなにを想像したんだという雰囲気になる。まずい、恥ずかしいという局面で、烏羽がトイレから帰ってきた。ナイスタイミングである。今日からきみはナイスタイミング烏羽くんである。
しかし彼は席につくやいなや、手元の酒をいっきにあおって息をついた。そんなに強い酒でもなかったので心配いらないと思ったが、あろうことか朝宮のグラスまで手に取り、そちらも空にしてしまった。
「すみません。麦ロック。5杯くらいください」
彼がなにを考えているのかすぐにわかった。現実逃避である。
「烏羽くん、そういうのはいけません」
「いや俺、酒強いんで、これくらい飲まないとだめだと思うんで」
「そういう問題じゃありません」
そしてその麦ロックが到着したタイミングで、すべてのスイーツを食らい尽くした城二がさらにメニュー表を開いた。
「すみません、杏仁豆腐とプリンアラモードと、チョコレートパフェとわらび餅とクリームあんみつと」
オーダーの向こう側で、女の子のだれかが声をあげる。
「え、まって、佐原くん寝ちゃったんだけど」
「もう店長! 今日は俺たちだけじゃないんですよ」
リゼが必死に揺り起こしているが、朝宮の経験上あれは起きない。絶対に起きない。
姉の顔はもはや見ることができない。
もうどうにでもなってくれ。
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