01.こんな夜はミルクティーを飲まずにはいられない

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01.こんな夜はミルクティーを飲まずにはいられない

「気に入ったみたいですね、彼のこと」 朝宮の仕事なんて、もうほとんど残ってはいなかった。タイムカードも切っている。朝宮の自宅は最寄りの駅から徒歩で二十分かかる。早く風呂に入りたいなどと言って、いつも真っ先に帰りたがるのは彼のはずだった。 ねえ店長。澄んだ空気のなかで、朝宮の声はちいさくてもよく通る。 「ああ、あんなやつはもうどこを探しても見当たらねえな」 佐原の仕事だって、やってもやらなくてもいいような雑事ばかりだ。なのにステンレスのボウルをずっと磨いている。明日になればまた小麦粉まみれになるはずの道具たちが、今夜入念に手入れされていた。 今日、サロン・ド・テ・プランタンをおとずれたひとりの青年が、店のスタッフに決まった。 導かれるようだったと、朝宮は思っていた。ふだんから成人男性らしからぬロマンチスト性があることは自覚していたが、これだけは自信を持って言えると思った。運命だ。彼はなるべくして、この店のスタッフになった。『堂島リゼ』の、紅茶へとかたむける情熱は計り知れない。 彼は高校時代の修学旅行でサロン・ド・テ・プランタンへ迷い込んで以来、寝ても覚めてもこの店のことが忘れられなかったという。まるでこの店を追いかけるようにして地元の大学をめざし、地道な受験勉強の果てに、ついにここへ引っ越してきた。 こちらだって、あの日へんてこな高校生がやってきたことを忘れてはいなかった。「俺、ここに住みたい」と言って、しばらく店のスタッフのあいだでそれは流行語になったものだ。 佐原はついに、とくに錆びついてもいない調理台を磨きはじめる。 彼は堂島リゼとテーブルをはさんで、形ばかりの面接をとりおこなった。おなじポットからおなじ紅茶を飲んで、彼の口から紅茶に対する想いを聞いた。 ふしぎだった。自分もまた、幼少期に紅茶とふれあっていたときのことを思い出していた。あのときまだ生きていた母は、おおきな屋敷で住みこみの使用人として働いていた。屋敷の主人がたいそうな紅茶好きで、ときどきワンポットぶんの紅茶を手土産に部屋へ帰ってくることはしょっちゅうだった。 彼女が紅茶をいれる手際はおぼつかなかったが、それでも一杯の完成品としてカップにそそがれたときの、胸の高鳴りは忘れることができない。味や香りまで鮮明に思い出すことまではできなくても、母親とテーブルをはさんで向かい合い、紅茶を飲んだ幸せは絶対に忘れない。彼女の幸せそうな笑顔まで、しっかりときざみついている。 「なあに、にやにやしてるんですか」 キッチンへ入りこんできた朝宮に、「もう帰ればいいのに」とは言えなかった。今夜はふたりそろって、おなじ気分でいる。 「そんなだらしない顔してたか? 俺」 「かわいかったですもんね。頭なでたりして」 「俺より十も年下なら、弟みたいな感覚になるだろ」 そう、弟ね。朝宮のつぶやきは意味深だったが、佐原はとりあえず聞こえなかったことにした。 今夜はふたりそろって、浮かれている。 朝宮樹はサロン・ド・テ・プランタンのオープニングスタッフとして、オーナーの恵里谷伽藍が連れてきた男だ。 彼は数人いたスタッフのなかでもとりわけ我が強く、恵里谷とぶつかることも多々あった。どれくらい我が強かったかというと、もともとフランス式で紅茶をいれる店にする予定だったところを、無理やりイギリス式に変更させたくらいである。『サロン・ド・テ・プランタン』という、フランス語の屋号の届出をした後の話だ。 おだやかな口調のわりに雑なところがあり、細かい仕事は任せられなかったが、生まれて初めて店長というポジションになって右往左往するだけの佐原を引っ張ってくれるときもあった。 出会って半年で息が合ってくるようになり、ときどき「給料を毎月上げろ」と理不尽な要求をしてくること以外はしっかり働いてくれる。気も利くから、一を頼めば十で返ってくる。もはやこの店にとって、なくてはならない存在となっていた。 煩雑な業務、種類の多すぎる紅茶、入れ替わりの激しいスタッフのなかで、現在まで残ってくれているのは彼だけだ。佐原はいちどだけ彼にたずねたことがある。どうして、この店に居つづけてくれるのか。給料に不満があるなら、もっと割のいい働き口もあるはずだ。彼くらい気の利く男なら、雇ってくれるところはいくらでもある。 「紅茶で日本を変えられないかなと思っただけです」 その答えを聞いたとき、佐原は思わず間抜けな声が出た。キッチンとホールを行き来するための出入口が、予定より十センチ低くつくられていたとき以来である。 「そんな顔しないでくださいよ。たいした話ではありませんから」 そう言いながらも、朝宮はどこか照れ臭そうだった。こんなにばつの悪そうな彼の表情を、佐原は初めて見た。 「麦茶でも緑茶でもルイボスティーでも烏龍茶でもない、私がこだわっているのは紅茶なんです。紅茶って、なんとなく敷居が高い感じがするでしょう? それを払拭したいんです。それでも、こころをこめていれた一杯の紅茶には、なにかしらの特別感がある。普遍と特別、その中間を探しているんです」 だって、店長があなたでしょう。そうつけくわえて背を向けた朝宮の顔を、今度は覗きこむ気になれなかった。彼はこんどこそ、その表情を見られたくないに違いなかった。 「俺、なんかしたっけ」 「なにもしてないからです。すくなくとも、あの恵里谷伽藍にはできないことが、あなたにはできると思ってます」 はあ、とこぼす佐原はそれ以上なにも言えない。彼の意図がわからない。しかしこれまで恵里谷伽藍に対して引け目を感じていることを、だれかにつたえたことがあるわけでもない。朝宮は、自分が彼に対して抱いている劣等感をあっさりと否定してくれた。 「日本を変えて、どうしたいわけ」 「そんなの当たり前でしょう? 征服して狂信させて、全日本人から浄財をたんまりとですね」 「お前、馬鹿なの」 「冗談にきまってますけど」 朝宮の顔はすっかり普段のままにもどっていた。白い肌は白いままで、眼鏡の奥の視線はぶれずにまっすぐ佐原を見ている。 「ほんとうの理由はね、とくにありません。ただ、そんなふうになればいいなという願望。そうなったら素敵だなという理想。もしかしたら、理由なんて徐々にあとづけされていくかもしれませんしね」 そんなことを言うが、彼にもまたなにか紅茶に対して特別な想いがありそうだ。それこそ、過去に素晴らしい思い出でもあるのかもしれない。ただ佐原は深追いしないで、興味のありそうでなさそうな生返事を投げた。 「こんどは私から質問です。あなたは、どうしてここの店長を引き請けたんですか」 オーナーである恵里谷伽藍が、腹違いとはいえ自分の兄だとは口が裂けても言えない。ただなんとなく適当な理由をつけて、お茶を濁すつもりだった。しかし朝宮の想いを聞いて、そうすることはひどく不誠実だと思った。それにこの話をするなら、この気持ちをだれかにつたえるなら、最初の相手は彼しかいないと思った。 「紅茶ってさ、おもしろいだろ」 朝宮は深く頷いてくれた。 「そうですね。いれかたやアレンジのしかたで表情を変えるものです。タブーはあっても正解はなくて、基本はあっても間違いはない。自分自身にもっとも合っているものを探すのもまた、おもしろい」 「そのとおりだ。それに、嗜好品とはいえだれでも飲める。コミュニケーションツールとしてすごくいい」 と、これは昼間に十も年下の男が教えてくれたことの受け売りだけど。 「そのための空間が、自分にもつくれたらいいなって思ってさ」 いいと思います。朝宮は自分よりも頭ひとつ高い男を見上げて、もういちど頷いた。なにか飲むか、と佐原の口から自然にこぼれた。彼としては、とびきり高価で開けることすら躊躇していたシーズンティーに手を出してもいいくらいの気持ちでいた。 しかし、朝宮の希望はいたって真逆だった。 「リクエストしてもいいですか。店でいちばん安いアッサムをとびきり濃くいれた、イングリッシュミルクティーをお願いします」 そうして、ふたりでミルクティーを飲んだ。 あらかじめあたためておいたピッチャーに冷たいミルクをいれると、これが自分たちにとっての「ベスト」になる。シュガーはほんのり、ミルクはたっぷり。ピッチャーの中身はまたたく間に減っていった。 朝宮は白いカップのなかでたゆたうベージュを眺めた。この色は彼にとって、いつだって魅力的に感じた。さまざまな感情がとけあって、好きも嫌いも、やさしさもきびしさもすべてあわせ持っていて、なのにどれもがおだやかに赦されてしまう、そんな色だ。 だれにも理解できないと思っていた。それなのに佐原は、見透かしたように「いい色だよな」と言ってくれた。カップを目の位置までかかげてまで。 「はじまりの色、って感じがする。ふつうは白にたとえられるけど、俺は違うと思うな。はじまりってのは、なにかしら不安とか恐怖とか抱えてるもんだろ。色がついてないとおかしい気がする」 それからゆっくりと口に含んで、飲みくだす。味わったあとのため息にのせて、佐原は残りの想いをありったけ吐き出した。 「でも、はじまりにはかならず希望ってもんがある。希望がすべてを包みこんでおだやかな気持ちになれたとき、ようやくスタートラインに立てるんだ。そのときの色はきっと、淡くてあったかい色だ。こんな色がきっと、はじまりとしてふさわしいと思う」 「よくしゃべりますね。疲れてるんですか」 「浮かれてるんだよ。冷めきる前に飲もうぜ」 あの夜から何年たっただろう。今夜、ふたりはあの日を再現するように、店でいちばん安いアッサムをとびきり濃くいれた、イングリッシュミルクティーを飲んだ。浮かれる自分たちを茶化すかのような春の香りがする夜風も、あの日とおなじだ。寒くはない。むしろ身体の芯から熱くなっていく感覚すらある。 そうして口にするミルクティーは、やさしい甘さで一日の疲れを癒してくれる。 「店長。私ね、彼なら私の夢をかなえてくれるんじゃないかと思ってるんです」 名前を言わなくても、佐原にだってだれのことだかわかる。 「あんまり期待しすぎてもかわいそうだろ。でも、正直楽しみだ。はやく一緒に仕事がしてみたい」 彼の顔を思い出す。よく変わる表情。彼が紅茶を飲んだ瞬間にわかりやすくとけた緊張と、かわいらしい過去を掘り起こされてあわてふためく動作。おもしろくて、いつまでも構いつづけたくなってしまう。頭のなかにリアルに描きだされる『堂島リゼ』。彼は彼で、新しいなにかがはじまったように見えた。 「烏羽くんと城二くんには、まだなにもつたえていません。ふたりとも、彼を見たらどんな反応をするでしょうか」 手のなかには、はじまりの色がある。ふたりは一気に飲み干すと、ふたたびポットから琥珀色の紅茶をそそぎ、シュガーとミルクであやふやにした。 期待も不安も、全部ぼかしてミルクティー色になれ。 それでもこんなに素敵な予感は、きっと裏切られることはないだろう。 こんな夜は、ミルクティーを飲まずにはいられない。fc5c3415-06f5-46cc-a24e-3977671bb18b
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