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プロローグ
「もう帰るんですか?」
まだ気だるさの残る身体で高垣涼一は寝返りをうち、ベッドの中から着替えをはじめている情事の相手、里仲裕之にかすれた声をかけた。
ベッドの周りには使用済みのコンドームが落ちている。ゴムを使ったほうが身体の負担は軽く、後始末も楽だ。明日も仕事を控えている社会人同士ともなると、情と現実を切り離して考えることは難しい。おまけに、情を必要としない相手ならなおさらだ。
「明日は朝から会議があるからね。ああ、この部屋は泊まりでとってあるから、涼一は気にせず休んでいていいよ」
そう言いながら、里仲はハンガーにかけていたスーツを身につけていく。シワにならないようにとホテルに入ってすぐハンガーにかけたスーツは、脱いだときと同じシワしかついていない。スーツを着た里仲はまるで涼一との時間はなかったものだと言っているようだと、涼一はひっそりと息を吐いた。
(翌日に予定があるなら別の日にしてくれればいいのに)
そう思うが、それが無理な話であることを、涼一は分かっている。涼一に許された時間は水曜日だけ。己の領分を守り都合のいい相手を演じるのは、身体だけの愛人で構わないと決めた自分の義務だ。
「俺が帰ったら寂しいのか? それとも、足りなかったか?」
隙なくネクタイまでしめているくせに、涼一を振り返った里仲の目は情事の最中を思わせる鋭さで光るが、どうせ戯れだ。爽やかであくのない容姿をしていながら、人の油断を見逃さず、駆け引きを好むクセの強い性格であることは、身をもって知っている。
だから、涼一も同じように返す。
「足りないって言ったら、どうしてくれるんですか?」
「さあ。どうして欲しい?」
ベッドサイドに腰掛けられ、安いスプリングが軋んだ音を立てる。乾いた手で髪を撫でられ、涼一はその手に唇を寄せた。
軽い言葉を交わし、その気のない駆け引きを楽しむ。これも大人の遊びの一環だ。だが、早く帰ると言っていた。無駄に引き延ばせば煩わしいだけだ。
しなやかな指に舌をはわせ、指先に歯を立てた。行為を連想する仕草で手を撫で左手の薬指にしっかりとはめられた指輪にわざとらしく爪を立てる。そして飽きたように突き放した。
「遊んでないで、早く帰ったほうがいいんじゃないですか? もう若くないんですから」
「言ってくれるね」
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