エピローグ  春

2/8
88人が本棚に入れています
本棚に追加
/35ページ
「そんなところで眠ったら風邪がぶり返すぞ」  トントンと二回、肩をやさしく叩かれた。  いつのまにか僕はソファで眠っていて、目の前のテーブルにはカバーを開いたままのタブレットが置いてある。彼が鳴らしたであろうドアフォンにも、鍵をガチャガチャやる音にもまったく気づかなかった。  頭の中はまだぼんやりとしていたけれど、今ここにいるのは十八歳の僕ではなく三十二歳の大人の自分で、今はまだ週のはじめ。そうだ。 「メシ、作ってくれたんだ」と、先に風呂に入るからとネクタイを取りスーツを脱ぎに部屋に向かう後ろ姿に向かって「おかえり」と声をかけ、聞いた。 「明日から出張だっけ?」 「そう。金曜の夜に帰ってくる。おれがいなくてもちゃんと食えよ。それと、寝るならちゃんとベッドで。身体、そんなに丈夫じゃないだろ」  それほど広くはない部屋だけれど、遠ざかるほどに彼の声は大きくなっていく。フッと笑いがこみ上げ、ソファに座ったまま両腕をあげて背中を伸ばした。  あゆみや、高校の時の同級生が今の僕を知ったら、驚くだろうな。  五歳年上の彼のことは、友達と呼べる人にも家族にも誰にも話していない。  転職を機に一緒に住み始めてからもうすぐ一年になる。同じベッドで眠り、一緒に食事をしてそれぞれの職場へ出勤し、休日にはどこかへ出かけたりたまに喧嘩をすることもある今のこの生活に、不満なんてない。少しも悪くない。  けど。  振り返ると、『もしも、あの時……』と思う瞬間が一度だけある。
/35ページ

最初のコメントを投稿しよう!