愛しさを忘れたいから。

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* 「よ。おめでとう」 「ありがとう!」 涙は出なかった。代わりに割れてしまいそうなほど頭痛がする。 大丈夫。 ……大丈夫だ。 言い聞かせて強く目を閉じる。 はあ、と短く嗄れた吐息がもれかけて、慌てて口を閉じた。 『ためいきつくと、幸せが逃げるんだよ?』 「……知ってる」 柔らかな初恋が、閉じたまぶたの裏で蘇る。 『好きだったよ』 「っ」 俺も、好きだよ。 好きだったよ、ずっと。 愛しい人も、愛しい思い出も、ほんの少しだけ特別な呼び名も、愛しい小さな嘘も。 きっとすべてを過去にしよう。 いつか、そう、もう少し後で、必ず過去形にしてみせるから。 今日だけは、日付が変わるまで、おまえのことを好きでいる。 笑顔を貼りつけたまま家に帰って、ソファに倒れ込んだら顔が途端に崩れた。 ……あー、駄目だ。 ほんとごめん。失礼になるのは分かってる。でもごめん、今だけ、今回だけ許してほしい。 ぎりりとソファを握った。クッションに顔を押しつけたままで息を吸い込む。 肺の中身をすっかり出してしまうような、思い出全部に区切りをつけるような呼吸を繰り返した。 喉が詰まる。くぐもった音が湿っている。 くしゃりと、視界が歪んだ。 「……はあああ……」 最後の長いため息をついたなら、狂おしいまでの愛しさに、さよならを。 Fin.
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