雨のように、

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 ゆかりは訳が分からず、その場に立ち尽くした。なんで、課長はこんな事を突然言い出したのだろう。混乱のあまりぼうっとしてくる。女性はサイテーッと呟くと、踵を返して、ヒールの音も高らかに階段を下りて行ってしまった。その場に取り残されたゆかりは、岸に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせるしかなかった。恨みがましく課長……月島尚人を見上げる。彼の頬が熱のせいで赤くなっている。汗で前髪が少しおでこに張り付いていた。熱でうるんだ瞳がゆかりを見下ろす。正直言って間近で見ると、月島課長はやっぱりカッコイイと思ってしまってゆかりはブンブンと頭を横に振った。月島課長狙いの女性社員が多いことは、ゆかりもおぼろげながら知っている。 ーー私はそういう気持ちから距離を置くようにしていたはずなのに。  ゆかりは心の中でつぶやいた。  それでも思わずひきつけられてしまうほど、月島課長のうるんだ瞳が、マンションの廊下を照らす蛍光灯の光をキラキラと反射するさまは魅力的だった。  こんなことになるくらいなら、課長の残業に付き合った挙句、彼が熱を出していることに気が付いて、タクシーまで呼んで(さすがにタクシー代は課長が払ってくれたけど)、なおかつ、おせっかいなことに、おかゆまで用意した自分の人の好さを呪いたい。いや、時間を巻き戻して、変な親切心を起こさないように、何時間か前の自分に忠告したい……。 「課長、どうして……」  付き合うなんて嘘言ったんですか、と聞こうとしたが、言葉を続ける事が出来なかった。月島課長の唇がゆかりの唇に押し当てられたからだ。ゆかりは驚きのあまり目をみはった。課長はゆっくりと唇を離すと、頬に浅い笑みを浮かべて、 「……、既成事実。あ、あと、おかゆ、ありがとう」 とささやいた。吐息が熱を帯びていた。そして、呆然としているゆかりの鼻先でドアがバタンと閉じられた。 ーーさ、最悪っ。     
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