晩春 -5月-

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晩春 -5月-

 書斎の壁に掛けた額を、私は熱心に見つめた。正しくは、見つめようとしていた。別段有名な画家の作品では無い。まだ若い頃に人から譲られた風景画だ。青く晴れた空に白い雲が少し、その下には沢山の船と西洋の街並みが描かれた港の風景が広がる。随分奥の船の乗組員まで緻密に描かれているし、櫂に押された水の波紋も巧みに表現されている。芸術的な評価は知らないが作者の努力が随所に認められる作品ではある様に思える。 「いい加減、少し静かにしてくれないかい?」 返事などある筈も無いと分かってはいたが、私は絵を見つめた姿勢のまま思わず声を荒げた。 彼がこの家にやって来てからと言うもの、私の平穏はすっかり失われてしまった。膝掛けはズタボロ、食事は常に狙われる、ノートパソコンを開けば画面に意味不明な文字の羅列が並ぶし、小物は大抵破壊されてしまうか無くなってしまう。新聞紙は広げる事も儘ならず、積んでいる本は倒すしソファの縁もボロボロだ。それでいて自身は季節の変わり目の抜け毛を大量に振り撒き、毎晩我が物顔で布団に丸くなっている。そして起きたら起きたで、今みたいに小一時間も哀れっぽい声を出して鳴き続けるのだ。本当にとんだ『神様』もいたものだ。このような時、不意に彼が出て行ってしまえば良いのに、などと言う考えが頭に浮かぶ事がある。しかし、庭に出る為に硝子戸を開ける時も玄関の戸を開ける時も、気が付けば私は細心の注意を払っているのだった。
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