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「叶、入るよ」
ノックし、ノブを回す。扉の向こう側で、車椅子に腰かけた叶が目を閉じて俯いている。眠っているようだ。
切り揃えられた髪が、叶の呼吸に合わせるように微かに揺れた。新緑を思わせる艶めかしい黒髪に、目を奪われそうになる。飽きることの無い、美しい我が娘。いつまでも見ていたい。そんな事を思うのも一再ではない。
「叶、松河くんが来る。居間に行こう」
静かに声をかけると、叶は首をかしげるようにして薄っすらと目を開いた。まだ眠そうな顔に、優しげな微笑みを湛える。私が後ろにまわり車椅子の手すりに手をかけると、叶はゆっくりと頷いた。
白いうなじが露わになり、はっとして目を逸らす。
打ち合わせに使うテーブルのそばに車椅子を置くと、見計らったようにインターホンが鳴った。玄関の様子が見れる液晶の画面には、見慣れた若い女の顔が映し出されていた。
「入ってくれ」
ロックを解除するボタンを押すと、玄関でカギの開く音がした。女は一声かけるとドアを開け、靴を脱いであがってきた。
「こんにちは先生。叶ちゃんも元気そうね」
入って来た女……編集部の松河美里は、車椅子に座る娘に微笑みかけた。松河は叶を妹のように可愛がってくれている。
以前、退屈な世間話やお世辞ばかりを言う編集者を、追い返したことがある。そして数年前にやってきたのが松河美里であった。大きな鋭い目が印象的な、理知的な女性である。
彼女は新進気鋭の作家として売り出していたそうだが、今は編集と作家の仕事を兼業で行っている。松河が所属する編集部は常に多忙を極める部署で、執筆に割ける時間があまり見込めないだろう。
作家の道はもう諦めてしまっているのかもしれない。
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