生きる

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生きる

「発売されましたね、先生の本」  ちびちびとアイスコーヒーをストローからすすっていると、灰色に近い黒をした影をテーブルの上に落として、彼が私に話しかけた。  ストローを口から離しながら上目遣いに彼の方を見上げると、彼はもうそこにはおらず、静かに向かいの椅子へと腰を下ろしていた。 「編集さんのおかげですよ。ありがとうございました」  目を三日月型にして微笑むと、彼は控えめに右手を左右に振って見せた。 「いやいや、僕は先生の作品を世に出すお手伝いをしただけですから。あ、すいません、アイスコーヒーを追加で一つ」  すぐそばを通りかかった店員に向かって、パーにしていた手の指を四本折り曲げ、人差し指だけを立ててみせる。  かしこまりました、と会釈をした店員が、ふわりとエプロンの裾をはためかせて、木目調の板の扉の向こう側へと消えていった。  ふう、と一息ついた彼の首筋には、うっすらと汗の玉が浮き出ていた。駅からここまで、歩き回って各書店での本の売れ具合を確認してきたのだろう。その輝く雫を見て、この人が私の編集でよかったという温かな気持ちが、私の胸に柔らかな灯りとなって宿った。 「扱いよかったですよ、平置きになってて。手にとってレジに持っていかれているお客さん、けっこういました」 「それはよかった」  口をつけていなかったお冷やを彼の前に差し出す。まだ大粒の氷がグラスの半分弱を占めているそれは、冷房の効いた店内でも、泣き濡れたように結露の水滴が全体を覆っていた。  すみません、と一言断って、彼は差し出された水を一気に飲み干す。彼のこめかみから、一筋の汗が流れ出る。ぷは、と息を吐き出すと、彼は手の甲で口元を拭った。
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