生きる

2/8
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
「あ、言われた通り、ちゃんと国会図書館に納本しておきましたよ。もう永田町に届いているはずです」  私は水滴をおしぼりで拭き取っていた手を止めた。先ほどとは異なる、灰色のような、桃色のような気持ちが、胸の奥で風のように通り過ぎていった。 「ありがとうございます。すみません、わがままを言って」 「いえいえ。結局はやることですから。でも、やっぱり珍しいみたいですね。発売日当日に図書館に納本されるようにしてくれ、なんてお願い」 「そう、ですか?」 「そうですよ。そもそも、納本制度があるってことを知っている人も少ないですから」  かく言う私も、と彼は頭に手を乗せる。彼が出版の世界に足を踏み入れたのは、つい最近だ。  私は唇を真横に伸ばして笑って見せ、何も言わずにアイスコーヒーを一口口に含んだ。砂糖もミルクも入れていないそれは、微かな苦味と深い味わいとを運んできた。 「でも、残念ですね。先生がこれっきりしか作品を書くつもりがないなんて」  空っぽになったお冷やのグラスに視線を落とし、呟くように彼が言う。左側から細く白い手が伸びてきて、どうぞ、と言う声とともに彼にコーヒーを差し出した。 「すみません、わがままばかりで」 「いいえ。一冊きりという先生は意外と多いらしいですから。安定とは程遠い仕事ですからね」  ストローに口をつけ、彼もコーヒーをゆっくりと吸い上げる。かさがほんの少し低くなると、中の氷がカラン、と音を立てて崩れた。  でも、と、彼はコーヒーをテーブルに戻しながら言う。 「先生の作品は、なんと言うか、小説への、本への執念みたいなものを感じて。この人は、きっと小説から離れないって思って。だから、ちょっとびっくりしたんです。もう書かないって言われた時」  私は、残り少なくなったグラスを引き寄せた。ストローがくるりと回って、私の目線から逃れるようにそっぽを向いた。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!