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幻惑
新婚旅行から帰ってきて初めての外出が許された。夫の実家にお土産のマカダミアナッツ入りのチョコレートと、ブランドの化粧品、バッグなどを渡しにいく。
彼のお母さんに助けを求めてみようか…。客観的に見たら本当に馬鹿な考えだ。でも、自分の両親を頼るのはアンフェアだと思った。私の味方をするに決まっている。
『嫁に来たから』などという古臭い価値観ではなく、彼の激情の原因を探り、なんとか元の優しい人に戻って欲しい。彼を育てたお母さんならば、助けてくれるかもしない。ヒントを貰えるかもしれない。そんな馬鹿なことがあるはずはないと叱責されるかもしれない。
リベンジポルノが怖いという気持ちよりも、まだ心のどこかで彼が変わってくれるかもしないという気持ちが強かった。
でも、いざ夫の実家にお邪魔すると何も言えなかった。
お土産をお母さんに渡す。
「まあ、ディスーラの口紅とリトンのバッグまで。うちは男の子だけだからこういうプレゼントは嬉しいわ」
お土産を見て喜んでいる姿を見たら、今こんな深刻な話をすることがはばかられた。もしかすると、口紅の色はもう少し暗いベージュの方が良かったかもしれない。お母さんの普段使いのリップは落ち着いた上品な色が多い。赤みが強いベージュは本当は好みから外れているかもしれない。
それでも彼のお母さんは、
「見て、明るくて素敵な色でしょ?」
リビングから一度出て、洗面所か自室でお化粧直しをしてくれた。
彼はあまり興味が無さそうに、
「いつもと変わらない」
そう言うと、お土産のマカダミアナッツ入りのチョコレートの箱を開けて食べ出した。
「全く、これだから男の子ってねぇ。」
私は場の空気を壊さないように、
「気に入って頂けて嬉しいです」
彼のお母さんに微笑みかけた。そして彼の方に視線を戻すと、いびつでゴツゴツしたチョコレートを手にする指が震えていた。さりげなく観察すると、頬が時々ヒクッヒクッと歪む。えくぼが出たり引っ込んだりしながら頬の筋肉まで震えていた。
何か…ある。ダメだ、彼のお母さんに相談すれば余計に事態は悪くなる。彼の震える指、歪む頬…。確かこれはチックという症状では?と心理学系の本で読んだことを思い出していた。母親に対して彼は相当怯えている。
私は何も気がつかなかったフリをして、リトンのバッグの話をお母さんとしていた。
「最初はなんで旅行の前にあれこれ私に聞くのかしらって思ったのよ、ごめんなさいね。まさかプレゼントしてくれると思わなくて。そんなに細かくリサーチしなくても。」
「すみません。同じ物をお持ちだったら申し訳ないですし、バッグにしろリップにしろお好みがありますから」
「私のお下がりのバッグでも欲しいのかしら?そんな風に疑って悪かったわ。私のお下がりなんか欲しがるような家の子じゃないのに」
一瞬だけお母さんの目の奥が淀んだ。でも、口角を上げて笑っている。これはエッジの効いた冗談で嫌味ではない。無理に自分に言い聞かせて、
「最初からお土産のリクエストをお聞きしたいって、言えば良かったですよね。誤解させてすみません」
私もぎこちない笑顔で取り繕う。
カタカタと細かい振動が隣から響く。夫は貧乏ゆすりをしながら爪を噛み始めた。彼のお母さんが、
「まだ、そんな子どもみたいなことやってるの?」
彼のせわしない仕草をたしなめると、
「違うよ、仕事のこと考えてただけ」
「仕事、そんなに大変?」
心配しているというより、自分の子をどこか小馬鹿にしているような口ぶりだ。夫は怒りを抑えるように拳を握りしめてその指先でスラックスを掴んだ。夫はお母さんと目も合わさずにうつむいたまま答えた。
「仕事は大変なものさ、なんでも」
お母さんの眉間に皺が寄り、
「あの頃頑張らなかったツケが来てるのね」
お母さんは私の存在など忘れて夫を冷めた目で見ている。「あの頃頑張らなかったツケ」、その言葉は大学時代あまり頑張らなかた私の心にも深く刺さった。
夫は立ち上がって一人で玄関に向かってしまう。私は挨拶手短に済ませて急いで夫を追いかける。通りを歩く夫の目は潤んでいた。でも、私は涙を堪える夫の姿を見ないフリをした。あんな風に親に言われたら立つ瀬がない。ずっとこんな風に親に言われ続けてきたのだろうか。
いつも頑張れる人ばかりじゃないのに。
誰だって息切れすることがあるのに。
なぜ過剰に期待されなければならないの。
初めて夫の抱えている、心の重荷に気がついた。心理学などの専門家ではない私に何か出来るのだろうか。うろたえるばかりで、何も出来ないかもしれない。
ただ、あんな風に馬鹿にされたのは私も初めてで悔しい。その気持ちだけは夫と同じだった。この人はずっとこうして、親に見下されて育ってきたのかもしれない。そんな夫から逃げることは卑怯なことだと思い始めていた。なんとかこのおかしな状況を私が変えなければ…。
私の友人や家族に話せば、そんなことより自分の安全を考えなさいと一喝されるだろう。そうやって私の味方に守って貰える所に逃げたい。で
も、母親の前で怯えきっている彼の顔が頭から離れない。帰り道、私は彼の手をそっと伺うように取ってみた。彼は一瞬ビクッと怯えた後に、今までの狂暴さが嘘のようにか弱い力で手を握り返してきた。
何も言わずに歩く帰り道。繋いだ手のぬくもりは豹変する前の彼そのものだった。
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