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細い三日月が掛かった空は、いつにもまして闇を溶かしたように暗かった。
桑原千尋は、深い眠りの中にあったが、夢現の中で耳に届いた音に、意識が浮上する。
うるるる…。
あまり耳馴染みのないその音に、千尋は薄く瞼を持ち上げた。
眼だけで部屋の中を窺う。
いつもと同じ部屋は、庭に面した窓から細い三日月の放つ光が弱いながらも差し込み、薄く辺りを照らしていた。眼だけで異常がないのを見て取り、寝返りを打つ。
その、眼の先に。
奇妙に胴の長い、狐のような顔をした大きな獣がこちらを見ていた。
薄暗がりの中に、炯々と光る一対の眼。
千尋は息を詰めて半身を起こしかけ、じり、と歩を進めた獣に凍り付く。
喉が引きつって声が出ない。瞬きもできずに獣を見つめた。
うるるる……。
それは獣が喉奥で唸る声だった。
薄く開いていた獣の顎が動く。
そこから、地を這うような低い声が発された。
『……あの人のもとから、去れ』
床に積もって蟠るような、重いその声に、千尋は喉を鳴らして息を詰める。
次の瞬間。
獣は音もなく床を蹴り、千尋に圧し掛かった。
「……ぁ……っ」
引き攣った喉はやはり声を閉じ込めてしまう。
月を反射するのではなく、それ自体が発光する眼が、間近に千尋を覗き込んだ。
『去れ。疾く』
唸る喉の音と共に吐かれた低い声。
瞬きさえ忘れて見返す千尋に一度だけ牙を剥くと、獣は掻き消えた。
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