懐疑の、灰鼠

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懐疑の、灰鼠

 倦怠感と疲労感は性欲に勝る。  薄く口を開いた一史の顔はあまりにも気が抜けて見えて晴人まで脱力した。首元から掛け布団の中に手を入れ腹に触れる。薄い肉がゆっくりと上下する。次いで、首筋に触れる。皮膚越しに指の腹に脈打つ血管が、わかる。  ひとつ、息を吐いた。  布団を掛けなおして薄く窓を開く。篭った空気が外に流れて澄んだ冷たいものが、肺を満たした。  一史の微かに開いた唇から、呼吸の音がする。  腹を重くしていたものが引いていく。  性衝動が治まると臓腑が絞まる感覚が戻ってきた。指先の痺れるような感覚に目線を向けると微かに震えていた。抑えるために両手を組む。  心音が早まる。喉に何か閊えたような息苦しさ。身体反応の全てが性的興奮から来るものじゃないことは、自分でもわかっていた。腕に手を滑らせ、両肩を抱いた。  生きている。  まだ自分の体は安堵を上手く認識できていない。  その体に触れながら、その(せい)に触れながら、まだ失う恐怖は体の端々に残留している。  もう一度、息を吐き出す。それはさっきよりも滑らかに、違和感なく吐き出され(はら)の奥を少し軽くした。  頬に触れる。確かなぬくもりが指先に伝わってくる。震えのなくなった指先が温まる。一史の頬に触れたままベッドの頭側にある壁に額をぶつけた。軽いが鈍い音が小さく響く。  取り乱した自分を一史はどう思ったのか。いや、取り乱すのが普通だ。だが、あんなふうに抱きしめて、他者を威嚇して通常でない反応を示して良かったのか。衝動的過ぎたんじゃないか。  こんなことを考えること自体、余裕がないのが見えて格好がつかない。    「子供(ガキ)か。」  緊急事態なんだ、当たり前だと思いながら、自分の母親のときですら、こんな風に取り乱したか思いだそうとして、そんなことはなかったと思い直した。  ―――あの時は、葬式とか、親父とか、そんなことが頭に浮かんでたのか。  思い出すと口の中が毛羽立つ。一史に触れている指先から、自分の黒い滓が移りそうでそっと離した。  どう考えても、一史の方が死には遠い位置にいそうだというのに自分をかき乱す。  ―――遠い位置にいるはずだからなのか。  とにかく自分は一史がいなくなれば、きっと生きていくことは出来ないのだろう。そう思いながら病室の扉を開く。  「お。」  スライド式の扉を半ばまで開いて、そのまま元の通りに扉を閉じようと右にスライドさせた。  「待て待て待て、」  スマホを持ったままの右手を扉と壁の間に挟んだ有栖が必要以上の声を出して顔を病室に突っ込んでくる。その額を左手で押し返して声を潜めた。  「まだ居たんですか、」  「居ました。」  「帰えってください。」  「帰ろうと思ったんだけどねぇ」  イカ臭くない?この部屋。  部屋の中で何が行われていたのか知っているような言い振りに左手を下ろすと有栖の体が廊下に一歩引いた。扉の開いた空間から廊下に出る。さすがにもう消灯時間は過ぎており、非常灯の明かりがぼんやりと長い廊下を照らしている。  「明日朝イチで採血と問診して、異常なければ退院だって」  「そんなに早くていいんですかね。」  「まあ、血中酸素濃度は安定しているらしいし、2階から妊婦抱えて飛び降りた割には尾骨の皹と掌の熱傷だけで済んでるんだからいいんじゃない?」  「なんでアンタがそんなに詳しく知ってんですか。」  んー、と大きく伸びをしながら有栖は廊下の先を示して歩き出した。  「1回ナースが来て病室に入ろうとしたんだけどさあ、病状とか保険とか入院費とかナンパとかで誤魔化してたから」  薄闇の中に2人分のゴム底が音を立てる。無人の壁を跳ね返って反響する。どこかの部屋から鼾が聞こえていた。  「なんで一緒だったんですか」  「え、浮気じゃないよ」  笑いを含んだその声に押し殺した憤りが腹の底で沸々と沸くのが判る。茶化していい場面とそうでない場面くらい弁えている、そう思っていたこと自体が間違いだったのか。  「浮気じゃないけど、落としに行ったんだよ。」  暗い廊下に有栖の声が響く。いつの間にか誰かの鼾は止まっている。
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