曰く付き長屋

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 英次郎と太一郎が慌ただしく飛び出していったあと、清兵衛と男は説教部屋に戻って向き合って座っていた。  がらんとした部屋が、しんと静まり返る。  そこへ、ぐぅ、と、腹の音が響き、男が赤面して己の腹をおさえた。 「おや。腹が減りましたかな」 「はぁ、実はここ数日、まともに食うておらぬのです」  お待ちを、と清兵衛が素早く立ち上がったかと思うと、身を屈めて敏捷な動きで静かに小屋を出ていく。  この動きを親分や英次郎が見たならおやと思っただろうが、あいにく料理人にはそのような勘働きは備わってはいない。  程なくして戻ってきた清兵衛は、両手に食器や食べ物を抱えていた。 「なにせ、無骨な男の独り住まい、簡単な昼餉しか用意できませんがね……小料理屋で働いていたお人に食べさせるようなものじゃ、ござんせん。ようござんすね?」  切り傷が走った凄みのある顔で言われ、男はがくがくと頷く。もとより男は、食べ物にケチをつける気はない。食べられるだけで、ありがたい身の上なのだから。 「ま、そこへお座りなせぇ」 「へ、へぇ……」  清兵衛が、男の向かい側にきちんと座った。  そして、玄米の握り飯が4つ、二人の間にどんと置かれた。二人分だろうか。無骨な握り方はいかにも男が握ったものである。  次いで、お椀に味噌と葱と湯がまとめて放り込まれ、味噌汁らしきものが出来た。これも、二つ。 「つけものは、この裏にある畑でとれた野菜を適当にぬか漬けにした……」 「大家さんがぬか床の世話を?」 「……ああ。子どもの頃から好物でな。食べるのが待ち遠しくて母上が作っているのを横で見ていた」  それに醤油をかければ、昼餉の完成だ。 「卵や魚といったものはないが、腹は満たされよう」  いただきます、と、二人の声が揃う。  いつの間にか、小屋の外は日常生活を取り戻したらしい。慌ただしく昼を用意する気配が漂う。  が、いつもならそれを気に掛ける清兵衛だが、今日は気にする素振りもない。 「……ちと物を尋ねるが」 「は、はひ!」 「そなた名……は、いや、今は聞くまい」 「はぁ」 「それよりな……長屋の住民が、薄情だとは思わなかったか?」  男の手が止まった。 「大家が人質とられて、助けようとしない店子だ」 「へぇ、それは思いました。俺が言うのもどうかと思いますけど、日頃お世話になってる大家さんでしょう? 危機的状況なのに誰も助けようとしない。いくらなんでも、酷いや!」  そう、そうなのだ……と、清兵衛は眉間に皴を寄せた。 「男、ちと、耳を貸せ」 「は?」  グイっと耳朶を引っ張り、何事かを吹き込む。 「どうだ?」 「ええ……しかし……それを今、実行するのはどうかと……」  なんだと? と、清兵衛に睨まれて、男は必死で頭を回転させた。 「なら、いつがいいと思う」 「だ、あ、せ、せめて……佐々木の英次郎さんが戻ってきてから……。ほ、ほら、襲撃がどうの、長屋の安全がどうの、と言っていたような」  確かにな、と清兵衛が肩を落とす。  と、そこへ、戸を叩く小さな音がした。 「豆蔵かな?」  凄みを綺麗に消した清兵衛が、おっとりと扉を開ける。ざあっと風が吹き込み、桜の花びらが吹き込んできた。  それが過ぎた後、そこには、緊張した面持ちの少女が立っていた。 「おや浮羽ちゃん、どうしたんだい?」 「大家さん、あのね」 「はいはい」 「若芽ってどうやって調理したらいいのかな、ってち、ち、父上が……」  清兵衛が一瞬目を丸くした後、笊に山盛りになった若芽を抱えて困惑している少女の頭を撫でた。 「そうかい。ちょうどいい、このお兄さん、料理が得意だから。手伝ってくれるよ」  え、と男が目をまん丸にして戸口を見る。期待に満ちた少女の目が、きらきらと輝いている。 「わ、ほんとう? よろしくお願いいたします」  ぺこん、と浮羽が頭を下げ、つられて男も頭を下げてしまう。 「ほら、行った。ただし、用が済んだらすぐに戻ってくるように。いいな?」 「は、はいっ」      このとき住人たちは知っていた。この男がほどなく、新しい住人になることを。殺人の濡れ衣を着せられた男など、ここでは特に鼻つまみ者になることもない。  このとき住人たちは、気付きもしなかった。  大家さんが、ささやかな意趣返しを企んでいることを――。 【曰く付き長屋・了】
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