一 『甲賀忍法干皮』

1/5
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/27ページ

一 『甲賀忍法干皮』

 ──イワトーノフが初めてそれらしき事件を目撃したのは、彼が日本に潜伏生活を始めてから、およそ一月ほど経った頃のこと、日付にして二〇〇七年十月二十九日だった。  日本の警視庁忍び組について、詳しく調べてみようとは思ったものの、そのような得体の知れない隠密組織を、一体どうやって探し当てたらいいものか。 無論、彼の仕事はそればかりではないから、他にもやる事はいくらでもあるのだが、その合間に忍び組のことを探ってみても、さっぱり成果が上がらず、さすがのロシアスパイもお手上げ状態の約一ヶ月だった。  だが、チャンスは突然に、しかも向こうから訪れた。 「仕事を頼みたい──」  朝鮮なまりの日本語だった。 「どんな仕事?」 「ひとつ、花火を仕込んで欲しい」  夜の新宿、その人気のない路地裏で、とても花火職人には見えない朝鮮系男女の会話に耳が反応したのは、さすがにロシアスパイの嗅覚か。 しかし本当のことを言えば、これは近くで食事をしたあとに、たまたま道に迷っていて出くわした偶然の賜物であった。  ただ、いかに多くの語学を学んだスパイと言えども、ロシア人のイワトーノフの耳では、北か南かまでは定かでない朝鮮なまり。 けれどこの、微妙にイントネーションが狂う日本語に、少なからず怪しい匂いを嗅ぎ取ったのは立派だった。  岩みたいに大きな身体をとっさに建物の陰に隠したロシアスパイは、そのまま本格的なスパイ活動を開始したのである。 「派手な花火なの?」 「なに、戦闘機を一発ドカンとやるだけだ」  仕事を持ち掛けている男の顔は、暗闇に隠れてイワトーノフの位置からでは確認出来なかったが、この依頼にニヤッと怪しげな笑みを浮かべた女の顔は、しっかりと見えた。 「面白そうね」  長い黒髪、冷たく落ち着きのある二重瞼の眼、細く高い鼻筋、尖った顎、くびれたウエストと小ぶりのヒップからは想像も付かない大きな胸の膨らみ…。  妖艶なアジアンビューティーは、けれどなんとなく、全体的に嘘っぽく見えた。恐らくは彼女の持つパーツのほとんどが作り物か、何らかの手が加えられているからだろう。  それだけに、企みを含んだその笑みが余計に恐ろしく見える。 「標的は、航空自衛隊のF2支援戦闘機。日本の軍事力を計りつつ、その世界的評判を下げるのが目的。訓練中の事故に見せかけてくれ」
/27ページ

最初のコメントを投稿しよう!