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「あらまあ、どうなさったんですか。ずぶ濡れで」
民宿『渓福』のフロントで、女将さんは客の姿態を見て目を丸くした。
ヒイカはにっこりとして、
「ちょいとそこで、狐に化かされまして」
怪訝そうに笑む女将さんに気にしないでください、とミヤは断ったうえで名乗り上げ、自分たちは宿に予約を入れている者なのですが、と切り出した。
「悪天候の折、はるばるお越しいただき、御足労でございます」
宿の女将、指吸小春(ゆびすいこはる)は深々と頭を下げた。
「どのような〈お殿様〉と〈お姫様〉がいらっしゃるか、わたくし実は心楽しみにしていたんですよ」
恬然(てんぜん)とポーズを取るヒイカの横で、むっつりとミヤはくちびるを結ぶ。
ふたりの名を真殿弥也(まどのみや)と三野宮姫花(さんのみやひいか)という。その縁で周りから〈殿〉と〈姫〉と揶揄を込めて呼ばれることが多い。
宿泊票を書き終えると、傍らに中学生くらいの少女が畏まって佇立していた。ずいぶん若い仲居だと思ったら、夏休みのあいだ家業の手伝いをしているらしい。娘の親瀬(ちかせ)だと女将さんに紹介された。
「頼むわね、チカセ。とにかく三野宮さんの着替えを」
娘はうなずいた。宿に関するあらゆる場所を要領よく説明するチカセに連れられ、ミヤとヒイカは二階にある『月の間』まで案内された。
和室に着くなり、ヒイカは感嘆を上げた。見晴るかせる大雪山系の連峰は確かに景勝だったが、なにより惹かれたのは眼前に広く切り立つ厳めしい渓谷だ。流木に揉まれる濁流が荒ぶる龍のごとく駆けている。
女物の浴衣を用意しながら、チカセが無念そうにいった。
「川が暴れていなければ釣れたての魚が御用意できたんですけど……ここ数日は釣りの機会がなくて。申しわけないです」
チカセの父は渓流釣りの名人らしい。普段は宿の板前を務めているのだが、客の少ない閑暇などには日がな一日、川に糸を垂らしているのだそうだ。
「だいじょうぶよう」
ヒイカはにこにこする。
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