Chapter 1 「嚆矢《こうし》」

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「……え、どこで?……どうして?」  身体が冷えていくのと裏腹に、心は熱を持ち動揺して呂律(ろれつ)が回らない。  嫌な脂汗が(ひたい)を伝って、くすんだ傷だらけの机にぽたりと落ちた。  "死"という慣れ親しんだ非日常的な言葉を聞くのは何度目だろうか。その容赦の無い鋭利な言葉が僕の胸をずたずたに切り裂いたのは――。  乱れる呼吸から理性が零れていく様で必死に落ち着かせる。 「……どこで?」  もう一度問い掛けた。  限界まで膨らんだ薄いゴム風船。僕は小さく深呼吸を繰り返して必死に空気を逃す。  黒いスラックスの右ポケットに忍ばせた小さなケースを、(さと)られない様に布の上からそっと触れて落ち着かせた。  目の前には小鳥遊がいるのだから……。 「あの記念樹……大きな桜の樹の下。早朝、一番始めに出勤した警備員の人が第一発見者。両目以外に脇腹も(えぐ)り取られていて、遺体があった場所には赤黒い血溜まりが出来ていたそうよ。私があの桜の樹の元へ行った時にはもう死の形跡なんて綺麗に片付けられていたけどね」  平静を(よそお)ってはいるが、顔面蒼白且つ表情は強張(こわば)っていた。  固く組まれた細く白い指の爪が白くなっている。小鳥遊も悲劇を思い出したくは無いのだろう。単なるクラスメイトの一員だとしても、同級生が亡くなるのは悲しい事だ。 「猟奇殺人……じゃ無いよね」  酷く陳腐な答えしか浮かばなかった。  そもそも人を殺害する祭にわざわざ両目をくり抜くなんて尋常では無い。弱冠(じゃっかん)十四、五歳の若者の命を(もてあそ)ぶ快楽殺人者がこの町にはいるのか――。  仮にそうだとすれば、連日ニュースになっていてもおかしくは無い。  しかしこの町に来てからそんなニュースは見ていないし、朝霧町が発行している機関誌にも載っていなかった筈だ。  アトリの死は無かった事にされている――? 「普通、ならね。……でも違う。"殺人"ではないから。これはそんな生易(なまやさ)しいものじゃない」  小鳥遊はゆっくり頭を振った。  不意に室内が暗くなった。窓に視線を向けると、金色に輝く太陽が灰色の暗い雲で覆われていた。それは僕の思考にも重たい影を落とした。 「……殺人じゃないなら自殺――な訳無いよね」  正しい返答が分からず、的外れな疑問をぶつけている事は承知している。だがこの話を続ける為には何としても問い続けなければならなかった。  当然自殺なんて論外だ。  そもそも直前まで吹奏楽部の練習をしていて、クラスメイトである小鳥遊を演奏会に誘うなんて死ぬ前の人間がやる事では無い。 「勿論、違う。これは暗黙の了解であって(あらが)えない"しきたり"。皆知っているから何も言わない」 「皆知っている?」 「そう、朝霧町に生まれた者なら皆知っている。だからニュースにもならないし警察も淡々と死体処理をするだけ。これはね……仕方が無い事なの。朝霧の宿命から逃れようとした、遠い昔の鳥達が夢見た未来の代償だから――」 「何も思わないの?少なくともクラスメイトが亡くなった訳だよね?」  奥底から沸々(ふつふつ)と煮え(たぎ)る不快な泡が心を侵食していく。 「しきたりだから。日常に溶け込んだ死を今更疑問に思ってもどうしようもない。()み言葉の様なもの」  どこか諦めた様な小鳥遊の顔。  同時に暗い蛍光灯が反射して映る光とは別の強さをその瞳に感じた。  ……つまり必然の死?死ぬ事を皆が了承している?  訳が分からない。そんな事あってたまるか。その理論が(まか)り通るなら、僕のこのケースの中身は何の為にある?  大切な人の死が運命だと言われたら――? 「……おかしいと思う?」 「思うさ!命を落とす事が仕方が無いなんて……それで済まされる事じゃないだろう!」  僕が声を荒げても小鳥遊はぴくりとも反応しなかった。  抑えられない。冷静にならなければいけないのに。本能が今にも暴れ出しそうだ。  自分の中で溶岩にも似た怒りが次々噴き出して来るのを感じていた。行き場の無い怒りと熱さは次第に膨れ上がり、思わず立ち上がって机を叩いてしまった。  思い切り振り下ろした両の(てのひら)が痛い。そしてちりちりと焼かれていく心の端が痛い。  ()ちかけた古い机からは中身の無い乾いた音がした。
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