魔法なんてないこの毎日が

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 本の中の女の子はかわいくて、おしゃれで、旦那が飲み会続きで帰らないなんて設定はない。魔法が使える以外にも、わたしにはないものをたくさんもっている。でも、ぜんぜんうらやましくなんかない。だって本の中の女の子は、竜と戦わなくちゃいけないし、女王様の陰湿ないじめに平気でいなきゃいけない。わたしにはそんなこと無理だもの。  もう何度も読み返したこの本の、主人公は王子様より強くって、だから失敗ばかりのへなちょこ王子を助けにいかなきゃいけなかった。それってどんな気持ちだろう。好きな人よりも強くなってしまった女の子も、自分が弱いと知ってしまった男の子も。  わたしは自分より弱い男の人とは結婚できない気がする。亮くんみたいな気の強い人に流されて、それで、いつの間にかこんなところにいる。  でもこの王子様は、ブロンドの髪が日の光できらきらと輝くらしい。青い瞳が優しい涙に濡れると、どんな宝石よりも美しいらしい。そんなに綺麗な人だったなら、一目惚れしてしまってもしかたない。想像の中の彼は、どうしたって想像だから、誰よりもわたしの理想に近かった。  児童書コーナーにあったこの一冊が、今のわたしの心の拠り所だった。ファンタジーなのに挿し絵がひとつもないのもいい。ハードカバーはホログラム加工がされていて、魔導書みたいな複雑な模様は、子供のころは大人っぽくて誇らしかった。けれど、大人になると少し子供っぽい。  亮くんは新書や自己啓発本以外読まないから、わたしは彼がいないときにだけこっそりこの世界に浸っている。笑われるのが怖かった。この本すら否定されたら、わたしはきっと生きていけない。  あと少しで敵の企みを暴けそうなのに、女の子はピンチに陥る。もう二度と魔法が使えないのと、王子様ともう会えないのと、どっちをとるか? 取引だ。  女の子は立ち止まる。ここまで一心不乱に走って飛んでやってきたのに、悩みが、不安が、動きを止めようと襲いかかる。わたしはぎゅっと息をのんだ。  わたしは、わたしのことなんてどうでもいいからと王子様を選ぶだろう。だって女の子は、わたしは、王子様を助けるためにここまでやってきたのに。  何もかも諦めようとするわたしに、しかし、女の子は言った。そんなの、誰もしあわせじゃない。わたし王子様のためだけに生きてるんじゃないもの。  そして敵の嘘を見抜き、今までで一番強い魔法を使ってやっつけて、無事に王子様を助け出す。ハッピーエンドだ。でも、女の子は町を出ていく決意をする。だってわたしは王子様を見捨てたんだから、いっしょにいる資格なんてない。本当は抱きしめたくて仕方ないのに、涙を隠して旅に出ていく。何度読んでも、どうしてもここで泣いてしまう。初めて読んだのはもうずっと前、小学生のころなのに。  時間があればいつもこの本を読んでいた。この世界では、わたしは誰より強くてかっこいい女の子でいられる。わたしが言いたいこともやりたいことも全部この子がやってくれる。だからわたしは『わたしらしく』いられる。就職してから夜の本屋さんで再会し、それからはお守りのように手元に置いていた。家庭に入って、ここまで読む時間があるとは思わなかったけれど。 「さて」  本を閉じて、彼の明日のシャツにアイロンをかけ、冷めた食事にラップをし、お風呂場にタオルと下着を出しておく。家が暗いと亮くんが不機嫌になるから、電気をつけたまま布団に入る。眩しくて眠れないから、アイマスクをつける。まるでわたしは亮くんのために生きているみたい。  本の世界の中のわたしに、部外者のわたしが外から話しかけた。  こんなの、誰もしあわせじゃないのにね。
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