act.01

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act.01

 「後は、30分おきに状態をチェックするようにしてくれ。血圧が下がるようだったら、また僕を呼んで。だが多分もうそれは必要ないよ」 「はい先生」  若い看護師が笑顔でそう答える。  マックス・ローズは、マリア・カラスの『アリア』が流れるオペ室を出た。   血塗れのゴム手袋を取る。  モスグリーン色の分厚いタイルに、小さな血痕が飛んだ。  マックスは淀みない動きで手袋をごみ箱に投げ込むと、うっとうしく頭に張り付いている帽子を取った。  濃いブロンドの髪がバサリと顔に落ちてくる。  近頃忙しすぎて満足に散髪にも行けない。お陰で最近のマックスは、医者というよりは研究に没頭する大学院生といったふうな粗雑なヘアースタイルになっている。 「おい、マックス。今夜一杯やらないか? いい店見つけたんだ。かわいこちゃんもいっぱいいるぜ。今日こそは断らないよな」  マックスの後を追うように、オペのサポートについていた同僚のマイク・モーガンがオペ室のドアを身体で押し開けながら言った。  マックスは、いきおいよく流れ出る水流に手を晒しながら、肩を竦める。 「冗談だろ? 今日俺が一体どれだけの患者捌いたか知ってるか? 心停止の患者を二人復活させて心臓外科に送り込んだ後、3度の火傷患者の皮膚洗浄をして白衣が水浸し。やっと服を着替えたかと思ったら、5歳の裂傷患者の縫合の最中、息子の血に酔った母親に反吐をかけられてまたまた着替え。その後細々と診察してやっと落ちついたかと思ったら、今度は胸部に38口径の弾を食らった13歳の女の子の緊急オペだ。もうへとへとだよ」 「へとへとなもんか! さっきのオペのお手並みは最高だったぜ! あと10人は開胸できるって感じだ。その情熱をたまには女に向けてみろよ。いい加減アタマだけじゃなくアソコも使わないと、錆てっちゃうぜ。メアリーに逃げられて以来、ご無沙汰なんだろ?」  自分を押しのけて洗面台に立つマイクの言い草に、最初は苦笑していたマックスも、最後の一言に一瞬顔をこわばせた。  眼鏡ごしの明るいグリーン・アイズが、暗く濁るのを見て、マイクはマックス以上にひどく傷ついた顔をした。 「 ── ごめん、マックス。お前を傷つけるつもりじゃ・・・」 「わかってるよ」  マックスは、僅かにマイクに微笑んでみせながら、深緑の手術着を脱ぐ。  それをランドリーバスケットに投げ込んだ時、目の前のガラスに映る背後のオペ室の様子が、いやに慌ただしいことに気がついた。マックスの背筋に、薄ら寒い電流が流れる。  不吉な予感。 「ローズ先生!」  案の定、背後で乱暴にドアが開く音がして、看護師の悲鳴に近い声が彼の名を呼んだ。  反射的に再び新たな手術着を手に取り、マックスとマイクはオペ室に戻った。 「規定量の輸血をし終わった後、血圧が急激に低下し始めました。脈も微弱です!」 「そんな・・・、信じられない・・・」  マイクが呆然となって呟く。  だが、オペ室の各所にモニターされている計器類の波形が、それが事実だということを示していた。 「オペは完璧だったのに・・・。なんでこんなことになってる・・・」  マイクの呟きは、マックスの心の呟きでもあった。  マイクも言ったように、先ほどのオペは完璧だった。   心臓近くに銃弾が入り込み、確かに危険な状態だったが、鉛の弾もきれいに抜き取り、破れた血管一つひとつきちんと縫合した。しかも、最も的確に無駄なくだ。  輸血もスムーズに進み、きれいに閉じ合わせた。その縫合痕は、芸術的だと言っていい。なのになぜ・・・? 「ローズ先生!」  看護師に怒鳴られ、マックスはハッと正気に戻った。 「どこかで出血しているらしい。もう一度開胸する」  ゴム手袋を填め直し、その手にメスを受け取ると、マックスは先ほど閉じたばかりの傷を開いた。 「どうなってる? きれいなもんじゃないか・・・」  マイクが中を覗き込んで、そう言った。  確かに心臓の回りには、多量の出血はみられない。 「先生、血圧がまだ下がってます」  看護師がそう言った時、患者につけていた血液パックの中に、多量の血液が吹き込んだ。 「輸血の準備を! ── どこか別のところから出血してる・・・」  マックスは、自分の顔が青ざめていくのを感じていた。  臓器を矧ぐって見ても、出血は確認できない。  口の中がカラカラに乾いて、食道の内側が外皮にペッタリと引っ付く感覚に襲われた。 「くそ! どこだ! もっと開くぞ!」 「マックス!」 「今は躊躇ってる暇はない!」  マックスはメスに力を込める。  依然パックには、夥しい出血。  やがてマックスは、問題の箇所を見つけ出した。  肝臓に小さな小さな穴が開いている。だが、少女の命を蝕むには、十分な傷だった。 「チクショウ、なんでこんなとこに穴が開いていやがるんだ!」  マイクが悲鳴じみた声を上げる。 「うるさい、マイク! つべこべ言わずに鉗子を差し込めよ! くそ!」  血液を吸引した後、マックスが傷の縫合にかかろうとしたその時。  ピーというあの耳障りな音がオペ室に鳴り響いた。 「フラットラインです!」 「電気ショックだ! 200ジュール! みんな放れて!」  マックスが黒く長い取っ手のついた電極を白っぽく変色した心臓に直接当てると、患者の身体がビクリと跳ねた。皆が一斉に心電計に目を向ける。耳障りなあの音は依然鳴り続けた。 「230ジュール。クリア」 「ダメです。戻りません」 「300ジュール。クリア」 「ダメです!」 「心臓マッサージを行う」  マックスは、小さな心臓を片手で直接鷲掴みにすると、それを一定間隔で押しつぶした。  手袋越し、なま暖かい肉の感触が直に手に伝わる。  だが、いつまで経っても、心筋自体の力の抵抗は返ってこない。  しかしマックスは、マッサージをやめようとしなかった。 「おい、マックス。 ── マックス」  マイクがマックスの肩に触れると、マックスは開いた方の手でマイクの手を弾いた。 「マイク、何やってる! 早く傷を縫い合わせろ!」  普段の温厚な彼からは想像のできないような怒鳴り声に、周囲のスタッフが怯えた表情を浮かべた。 「ダメだ、マックス。彼女はもう助からない」 「連れ戻せる。絶対に。死なせない」 「ダメだよ」 「ダメじゃない」 「ダメだ」 「ダメじゃない!」 「いい加減にしろ! 彼女はもう天国に旅立ったんだ。安らかに眠らせてやるんだ」  依然マッサージを続けるマックスの手を、見かねた年輩の看護師がそっと掴んだ。  マックスがビクリと身体を竦める。  看護師はその時、病的に見開かれたマックスの翡翠色の瞳を見た。 「くそ!」  血塗れの両手を振り上げながら、マックスは手術台に背を向けた。  苛立ちにまかせて投げつけられた眼鏡は、軽い音をたてて床に転がった。  マックスは頭をかきむしった後、両手で顔を覆った。  彼のダークブロンドの髪と蒼白の顔は少女の血に染まる。  マックスは、濃厚で鉄臭い血の臭いを感じながら、両手の間から手術台を見た。  褐色の肌の少女。  今朝起きた時は、今日自分の身にこんなことが起きるなんて、予想もしていなかっただろう。  この親孝行な少女は、ただ買い物袋を持って通りを歩いていただけだ。  彼女を撃ったヤク中の男とは、何の面識もなかったという。  少女の穏やかな顔がふいに滲んで見えた。 「くそ・・・ちくしょう!」  血塗れの顔で、マックスは手術台に猛然と歩み寄ると、再び少女の心臓を掴んだ。 「マックス、よせ、やめろ!」 「ローズ先生!」 「うるさい!」 「おい! 誰かこいつを止めてくれ!」  自分の身体を後ろから羽交い締めにするマイクが、今まで聞いたこともないような金切り声を上げていた・・・。  アメリカ、ヴァージニア州の最南に位置するC市は、いまだに増殖を続けている。  大陸の東、首都ワシントンの真南に存在するこの都市は、過去に遡ると、重工業と綿花栽培が街の財政を支えていたという南部色の強い、何とも冴えない街だった。  街の周辺には国立の大学すらなく、街に住む人々は皆一様に同じ格好をして工場に出かけ、街の周辺の農家は、奴隷を従え一族皆で広大な綿花畑に出て行った。  それがここ数十年の間で、街は驚くほど様変わりをした。  きっかけは、ミラーズ社の進出である。ミラーズ社は元々、ボストンを拠点としたオーダーメイドの靴製造販売業者の老舗であったが、1955年から徐々に大衆にも気軽に買えるリーズナブルな靴としてナイロン製の靴の開発を開始、その後スポーツ業界専用のハイテクシューズの研究・開発を始め、現在ではナイキと並ぶ世界的に有名なスポーツ用品メーカーとして、また様々なハイテク新素材の開発業社として様々な業界に影響力を持つ巨大企業となった。  そのミラーズ社が、何を思ったのか1970年代後半にヴァージニアの片田舎に本社ビルを移転させるやいなや、街は、宝石を抱く都市と化した。  畑をつぶせばつぶすほど現れる広大な土地。首都や貿易上地理的に有利な街リッチモンドに近く、ニューヨークにも飛行機でさほど時間がかからないという交通の便のよさ。そしてなにより、重工業景気に限界が訪れ、まさに死にかけた街であったことが、逆に街の発展に大きな急進力を与えた。都市の中心地には格安な工場跡地と勤勉な労働力が有り余っていたからだ。  街周辺には、ものの10年もの間に次々と様々なクラスの住宅と教会が建ち並び、大きな環状道路が蛇のように街中をうねった。大規模な高層ビルディングが都心部分に続々と現れる一方で、昔のよきアメリカを彷彿とさせる上品でクラシカルな建築物が市議会の周辺のメインストリートに立ち並んだ。その一方で、様々な種類の人間が街になだれ込み始め、その急激な人口増加は、極端な所得格差を産んだ。  C市ほど、貧富の差が激しい街はない。  市の北部に流れる河の北側は、国内でも悪名高いスラム街が広がっている。  マックス・ローズの勤めるセント・ポール総合病院は、市内にある総合病院の中でも一番北に位置する病院で、そこのER・・・すなわち緊急処置病室は過酷を極めた。  どこの大都市でもありがちだが、医療費の大幅な削減の波を受け、病院は常に医師不足に喘いでいる。特にERでは、その過酷さ故に新米医師の入れ替わりが激しかった。  マックス・ローズは、その中でも2年間ER在籍している。  メディカルスクール卒業後、迷いなく志望した。  得意分野は心臓外科である。だが、ERにいる以上、彼は何でもそつなくこなした。いやそつなくというと語弊があるだろう。正確に言うと、彼はどんな問題に対してもほぼ完璧に仕事をこなした。  そのため、レジデントではあるものの、ERでは正規のスタッフ医師と変わらない信頼と扱いを受けていた。  だから、マックスが病院を辞めると言い出した時、病院の中が蜂の巣をつついたかのような騒ぎになったことは言うまでもない。  病院長や事務長はもちろんのこと、他の課の医師や果ては看護師までが ── 彼女達は、マックスを患者一筋の今一つセックスアピールのない男と認識をしていたが、彼のボサボサのブロンドの下にはおそろしく繊細で端正な顔が隠れていることを知っていた ── 、マックスの仮眠中の時や食事の時など、貴重な休みの時間を見計らって代わる代わる引き留めに来た。  特に同僚のマイク・モーガンは、あの悪夢の手術に立ち会っていた張本人だったせいもあるのか、最後までマックスに食い下がった。  ER最後の日。  ロッカーから出した荷物が段ボール1箱に収まり切らず、マックスは驚いた。  自分の生活が、いかに病院を中心にして回っていたのかが身に染みてわかる。  マックスが、ロッカー整理の最後に手に取った写真。  色あせかけた淡い光の中で、メアリーが笑っている。  今はその笑顔も、他の男のものだ。  マックスの“病院と家をただ往復するだけの生活”の中で、いつしかメアリーのこの笑顔は完全に失われてしまった。  メアリーがそんな生活から逃げ出したいと思い、実際それを実行したことは誰にも責められないだろう。  マックスにもそれは十分わかってはいたが、自分にいくらそう言い聞かせても、彼はメアリーのことが許せずにいた。いや恋しかったといった方が正しいだろう。  今でもマックスは、メアリーのことを毎晩夢に見るぐらい、忘れられずにいる。  彼女を奪い返したいのは山々だったが、そうしたところでメアリーを幸せにする自信はまるでなかったし、そんな自分が情けなかった。  メアリーがマックスの元を去って1年。自己嫌悪の深い谷間に落ち込んだ彼を、先日のあの“事故”が襲ったのである。  原因は、ささいなことだった。  手ひどい傷を負った少女が運び込まれた時、胸部の銃創に気を取られ、背中側の傷の確認をマックスが怠ったことがすべての引き金だった。  その少女は、買い物帰りにヤク中の強盗に襲われた。  少女は、胸に銃弾を受けたばかりか、背後からアイスピックのようなもので刺されていたのだ。  その小さく細い刺し傷は、体外にはさほどの出血を見せず、それでもその先端は肝臓にまで達していた。  その少女は、父親と二人切りで暮らしていた。  強盗が引き破った買い物袋の中には、赤いリボンがかけられた合皮製の黒い手袋が残されていた。決して高価な代物ではなかったが、それでも小さな真心がいっぱい詰まったそのプレゼントは、結局少女の手から父親に渡されることはなかった。 「マックス! もう行くのか」  マイクが、医師控え室に息を切らして入ってくる。  マックスは、慌ててメアリーの写真を段ボール箱の奥に突っ込んだ。 「見送りはいい。他の人も丁寧に断った。ここは時間無制限の戦場だ。リタイヤしていく人間を見送る時間なんてないはずだから」  眼鏡を突き上げる仕草をして、そこに眼鏡がないことに、マックスは思わず苦笑いを浮かべた。  眼鏡はあの時壊れてしまって、今はかけてない。道理で、マイクの顔がかすんで見えるはずだ。  だが今は、その方がありがたかった。  涙もろいマイクは、もう泣いているに決まっている。  精錬活発な同僚の涙は、見たくなかった。 「なに水臭いこと言ってんだよ。怒るぞ、本当に」  マイクの声は、いつもと変わらなかった。それが逆にマイクの優しさのような気がして、マックスは胸が痛んだ。  昨夜マックスの家まで押し掛けてきたマイクは、「逃げるのか!」と散々マックスを罵った後、大声を上げて泣いた。いくらあの事故は、マックスに原因があったとはいえ、マイクにも重い凝りとなっていたのだろう。  ── マイクはきっといい医者になる。  マックスはそう思った。 「なぁ、お前これからどうするつもりだ? もう病院勤めはいやなんだろ?」  少々煮詰まり気味のコーヒーを自分のカップに注ぎながら、マイクが訊く。  マックスの分も入れようとして、彼専用のカップがないことに気がついたマイクの横顔が再び暗く沈むのが、マックスにもわかった。 「さぁて、どうするかなぁ・・・」  マックスは、そんなマイクに背を向け、側のデスクに腰掛ける。 「とりあえず世話になったおばさんに挨拶しておいて、それからだな。街を出るか、それともこの街で新たな仕事を探すか・・・。どうなるかわからないけど、とにかく自分を見つめることのできる時間がほしい。あんなにいい加減に人の生命に関わるようなことはもうしたくない。もし、また医療関係の仕事をするにしても、ERはごめんだ」 「そんな悲しいこと言うなよ・・・」  しみじみとしたマイクの声。  マックスは急に自分が世界一酷い人間に思えて、目頭が熱くなるのを感じた。 「・・・ごめん、マイク。でも、駄目なんだ。こんな状態のまま、ここには勤められない。俺はまだ、あの少女の父親に真実を告げて謝罪することすらできずにいる。その勇気がないんだ。こんなんじゃ、またきっと同じことを繰り返してしまう。きっとお前にも迷惑をかけて・・・」  マックスが全てを言い終わる前にマイクの携帯電話が鳴った。緊急患者が運ばれてきた合図だ。マイクが舌打ちをする。  マイクは、テーブルの上に飲みかけのコーヒーの入ったカップを乱暴に置くと、部屋を出て行こうとする。  両肩を竦めて段ボールの蓋を閉めようとするマックスに、マイクは背を向けたまま一言こう言った。 「 ── マックス。お前が何を言おうと、やっぱりお前は逃げてるよ。俺にはていのいい言い訳にしか聞こえない。・・・じゃ」  マイクが部屋を出て行く。  彼が振り返ることは二度となかった。  それは苦々しい別れだった。
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