序章

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 その花の香りが、ふっと鼻孔をくすぐった。  男は不意に馬を止める。  馬上にあってさえ長身が認められる、眉目秀麗な男だった。  しかし、ゆったりとした衣の上からも見てとれる筋肉が無骨さを強調し、深い湖の底を思わせる暗い眼光が魅力を半減させている。  咲き乱れるのは名も知らぬ草花。人の手が入っていない花畑は、荒野の趣がある。  遠乗りの帰り、見慣れたいつもの風景だった。  足を止めたのは、美しさに見惚れたからではない。無骨な男に、花を愛でる趣味などあろうはずもなかった。  頭をよぎったのは、病床にある義父のことだ。もう随分と顔も見せていない。さすがにそろそろ訪ねて行かねばならない頃合だった。  花を贈る習慣のある(ゆう)ではない。  けれど、いつも花を飾っている親友の部屋を思い出し、見舞いに持って行くのも悪くないと思い立ったのだ。  義父を慕っているわけではなく、むしろ軽蔑さえしていた。だが育ててくれた恩はあり、礼儀は立てなければならない。  それ以上の感情はなかった。  馬から下りて、花畑に足を踏み入れる。見栄えのする花を無造作に手折り――動きを止めた。  男の足で二十歩程だろうか。不意に、背後からの気配に気付いたのだ。  反射的に腰の刀に手を伸ばす。立場を自覚すれば、暗殺を危惧するのは当然だった。  振り向き様に斬って捨てなかったのは、違和感を覚えたせいだ。まるで殺気が感じられない。足音すら聞こえる。標的を前にした刺客にしては、不用意すぎた。  怪訝に眉をひそめ、警戒を解かぬままに振り返る。  立っていたのは、小柄な少女だった。  はんなりと刻まれた微笑みに、男は絶句する。  透き通るような白い肌と、わずかに色付いた頬。薄桃色の唇は肉感を帯び、睫毛は頬にまで影を落としている。  大きな瞳は琥珀色、柔らかそうな髪は茶色がかっていて、この邑には珍しい色彩だった。  しかし、男の目に少女が鮮やかだったのは、色彩のせいばかりではない。彼女が浮かべた微笑に、辺りの花々さえ霞ませる程の威力を感じた。  面立ちのあどけなさが示す幼さも気にならなかった。その美貌と、柔らかな空気が男を惹きつける。  ――自分は彼女と出会うために生まれてきたのだ。  それは、確信すらはらんだ予感だった。
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