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「ひやっこーい、ひゃっこいー」
遠くで水売りの声が聞こえる。
店の並ぶ大通りを流しているのだろう。
すこん、と抜けた夏の青空。冷たくて甘い水や白玉をつるりと喉の奥に流し込みたい。
そうは思いながらも、佐々木研之介は畳の上に寝転がったまま動かなかった。
読んでいる艶本の見開きにぽたりと汗が落ちる。今、悪漢が罠とも知らずに美女の寝室に忍び込んだところだ。
六畳一間の長屋の部屋だが、小さな坪庭がついていて、慰め程度の風が入る。
その坪庭に向けて開け放した窓から、ぶうんと蜂が入ってきた。
ぶらぶら動いている研之介の足の間を通り、やはり開け放たれている入り口から出てゆく。
「研さん、いますかい――おっと」
その蜂と正面衝突しそうになった男が、ひょいとのけぞって避けた。
「なんだよ、この家は蜂が人を出迎えんのかい」
ガラガラ声で気易く声をかけて入ってきたのは、大家の長吉だ。五〇歳になったばかりだが、いまだに近所のガキどもが悪さをすると走って追いかける元気者だ。
「なんのようだ、店賃はこないだ払っておるだろう」
研之介は顔も向けずに寝転がったまま戸口に返事をする。
「あたしが店賃の催促にだけくると思わないでくださいよ。今日は研さんに言伝を持ってきたんですから」
大家は大きな鼻を手で擦り上げて、そのまま上がりかまちに腰をおろした。がたいのいい男なので、かまちがぎいっと悲鳴を上げる。
「ことづてだと?」
研之介はようやく体を起こした。
「本家からなら、いらないぞ?」
佐々木研之介は二二歳。月代をきれいにそりあげ、無精ひげもないつるりとした顔は、年齢より若く見え、年増に好まれそうな愛嬌がある。
しかし、ひと月も着っぱなしのへろへろした単衣から除く胸板は、鍛えられて張りがあった。
「お屋敷からじゃありませんよ。色っぽい話でさぁ。研さん、あんた、琴菊って女、知ってますかい?」
「ことぎく?」
研之介は記憶をさぐった。名前に覚えはある。口に出すと顔より先に彼女の使っていた香りがよみがえった。
「ああ、琴菊かぁ……」
甘酸っぱい思いが胸に満ちる。
琴菊は研之介の初めての女。初恋の相手だ。
「懐かしい名前だな」
「その懐かしのお人からの文ですよ」
「琴菊からの?」
「そうですよ、ほれ」
大家は懐からきちんと折りたたまれた文を差し出した。
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