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 ゾランはわたしを担いだまま、外へ駆け出した。王宮を飛び出し、大臣や家臣たちの邸宅が建ち並ぶ区域を過ぎ、外側へ外側へと移動していく。白み始めた空は月や星を消し去った。鳥の声に混じって、城壁の向こうから、金属のぶつかる音や不穏なざわめきが聞き取れた。  民人の暮らす建物と建物の隙間を通り抜けた先で、ゾランはわたしをおろした。 「いいかげん、泣き止め」  いまだ涙が乾ききらないわたしに、ゾランは首もとに巻いた布を外して渡した。 「顔を拭け、よけいな声をたてるなよ。もうすぐ日の出だ。建物沿いに城壁へ向かう、ついてこい」  渡された布は薄手で、思いもよらぬ大きさだった。ゾランの汗の匂いがする布で顔を拭き、ウードを包み背負った。 「いくぞ」  有無を言わせぬ勢いに押されて、わたしはゾランの背中を見失わないようについていった。  薄い壁越しに人々の様子が感じられた。泣き声、嘆く声、短くどなる声。こんなときなのに、食事をするのだろうか。たまに煮炊きをする匂いがする。 「ゾ、ゾラン」 「もうすぐだ、角を曲がったら全力で走るぞ」  家並みが途切れた。一気に走り出すゾランのあとを必死に追った。思わぬ距離に息が上がりそうだ。ゾランは城壁に一番近い粗末な小屋のなかに飛び込んだ。  急に立ち止まったゾランの背中に体がぶつかった。走りすぎて喉が痛い。ふるえる膝に手を置いて、荒く息を繰り返した。いくぶん落ち着いてから周囲を伺うと、狭い小屋は農具をしまう場所らしい。けれど笊ぐらいしか見当たらない。 「鍬や鎌は持ち出したか」  それは、敵を迎えうつにはあまりにも頼りない武器と思えた。しかし、何かを手にしていないと、とてもではないが不安で仕方ないだろう。  ゾランは小屋の壁際まで行くと、地面に敷かれた擦り切れた絨毯をめくった。地面には、一辺が大人の肩幅よりいくらか大きな四角い木の板があった。 「扉が」 「そんなごたいそうなものか、蓋だ」 「こんなところに、抜け道……」  わたしが無い知恵を絞らずとも、逃げ道があったのか。 「いつの間に」 「ここに雇われてから、すぐにな。傭兵連中が交代で掘って用意した。東の軍隊と本格的にぶつかったなら、勝ち目がないことは初めから分かっていたからな」  ゾランは板をずらすと、聞きなれない言葉と指笛を暗い穴蔵に向かって投げかけた。穴は緩やかな斜面になっていて、奥から甲高い音が聞こえた。やはり誰かいるらしい。 「入れ、ここで東の連中をやり過ごす」 「外へ逃げないのか」 「昨日の夜に、城壁の向こう側からここを通って戻って来た。そのときには、すでに東の軍が北の門から城壁全体へ展開を始めていた」  さきほど聞いた音、確実に東の兵士たちはオアシスを取り巻いている。どれ程の数だろうか。頬がひりつく。 「敵方の手に落ちた都市がどうなるか、知らないだろう」  ゾランの昏い瞳に見つめられて、背中がゾワリとした。 「略奪が始まるんだ。金目のものはすべて奪われる。年寄りや男たちは殺され、女おんなこどもは犯され殺されるか、命があっても、奴隷として連れ去られる。そんな騒ぎが何日も続く。壊された家や通りには死体がいくつも転がる」  想像するだけで、額に脂汗が浮かぶ。人が容赦なく殺され奴隷にされるなら、王族は……。 「おれたちは略奪に気をとられて警備が手薄になったところを見計らって、ここから脱出する」  ゾランの言葉に、体がこわばっていくのが分かった。オアシスに住んでいる者たちの多くが、今から死ぬのだ。農作業に使う鍬や鎌、台所の包丁での抵抗など、きっと無きに等しいものだ。  砂漠の宝石といわれたオアシスは消え去るのか。 「姫さま、姫さまは、東のものたちに救い出されるのだよな」  そうなるはずなのだ。姫がわたしに書状と簪を託したのは、そういう意味だ。  ゾランは何も言い返さなかった。 「無事に救い出されて、故国へと戻られるのだよな」  そうしたら、姫は自由の身になる。きっと、戻られたなら歌を好きなだけ歌われるだろう。歌の名手としてきっと皆から一目置かれ、地位を手に入れ、誰もが羨む暮らしを送るのだ。 「……あのな、おれたちだってどうなるか、分からんのだぞ。ここが見つかってしまえば、殺される。ぜったいなんて、ない。姫もおれたちも」  命の瀬戸際にあるのは、変わりなかったのだ。ゾランはわたしの手首を掴んだ。 「ただ、あの姫は……心に決めたことがあるように見えた」  ――すべきことがあります。わたしにも姫さまにも。  侍女はあの晩、はっきりと言い放った。するべきことがあると。 「なにをすると」 「命を捨てる覚悟」  最悪の言葉をゾランは口にした。わたしは目を見開いた。  あえて今まで考えないようにしていた最悪の筋書きだ。 「落とさないように持っていろ、それが姫がおまえにしてやれる精一杯の気遣いなんだろう」  姫から渡された書状と、大切な人からの贈り物だと必ず身につけていらした簪。  二つを収めた胸元を、思わず服の上から押さえた。 「早く、中へはいるぞ」  小屋のわずかな隙間から白い光がさし、ゾランの顔を照らした。  一歩引きずられたわたしは、ゾランに抗い体を止めた。  眉をしかめ、ゾランがわずかに首をかしげた。 「何か、聞こえた……」  わたしは小屋の入り口を振り返って耳を澄ませた。 「……潘将軍……王の声だ!」  わたしはゾランの腕を振りほどき、小屋から駆け出した。  王が東の軍に向かって、声をあげている。声は城壁へとぶつかり、響き、聞き取りづらいものだった。  けれど、注意深く音を拾うと内容がわかってきた。  話し合いに応じろと、王は声を張り上げていた。この期に及んで、居丈高の姿勢を崩さない。  恐らくは東側の門に面した塔に登っているのだ。王の声を聞きつけたのか、家の扉を細く開けて外の様子を伺う者と目が合う。  目線はわたしを見てから城壁へ、さっと動いたかと思うと扉を素早く閉ざした。建物の陰に隠れて城壁を見ると、何かが動いていた。兵士だ。東の兵士が城壁の上にいる。ゾランの言ってたことは真実だった。  早く、塔へ行かなければ。  今夜の月が昇るときには、わたしの命は尽きているかも知れない。それならば、最後まで姫さまを守らなければ。武器も戦う心得もない。けれど、姫さまを守る盾ぐらいにはなれる。姫さまを無事に東へと手渡さなければ。  わたしの命など、どれほどのものだろう。地上にあるべきは、姫さまだ。姫さまの歌は、なにものにも代えられない。  そのとき、わたしの耳は確かに捉えた。  ユェジー姫、と。  思わず足を止め、王の声に耳を澄ませた。 「こちらには、潘将軍の妹ぎみであるユェジー姫がいる」  ざわめきが城壁の上から聞こえた。東の兵士たちが動揺している。もしや、姫がバルコンに引き出されたのではないか。  わたしは塔へ、いっさんに駆けた。途中、王の訴えが気になったのか、武器を手にした何人もの人々が家から首を出していた。道を走る者は、わたしひとり。高いとろから見たなら、格好の獲物なのかもしれない。いつ空から槍が飛んできてもおかしくない。でも、いまはそんなことに構っていられなかった。  王宮への門のすぐそばにそびえる塔は、ふだんは閉じられているバルコンへの扉が開かれ、数人の人が見えた。  そして、塔から東側の門に伸びる通りには、繋がれた男たちが何列も並んでいた。後ろ手で縛られ、互いの手足を縄で結ばれている。容易に逃げられないよう人垣を作ったのだ。  おそらく地下牢の罪人たちだ。逃げ遅れた者や、あるいはカナートから連れ戻された者もいるのかもしれない。唇をかみしめてうつむく老人、小刻みに落ち着きなく体をゆらす若者。  自分も、あの中にいたかも知れない。  繋がれた囚人たちの後ろには、王の兵士たちが控えていた。身を守る革の胸当てや兜をまとい、剣や弓も持っているが、それでも青い顔を強ばらせているのは、囚人たちと変わらない。  塔の入り口は反対側で見えないが、バルコンの人影は一人、二人……。王と、姫さまか。 「会談に応じよ。我々はユェジー姫のお命を預かっている。よもや、実の妹ぎみを見捨てたりなさいませんよな、潘将軍」  王がユェジー姫を、ぐっと前に押し出した。姫は臆することなく顔をあげている。黒髪は結われずにいた。白銀の衣が朝日に照らされ、長い髪が風にそよいだ。 「姫さま!」  思わず口走ると、最後列の兵士が動くのが分かった。わたしは走り出した。塔へ登らなければ。姫さまの近くへ行かなければ。  しかし、数歩も行かぬまに、兵士が腰に抱きつかれた。勢いよく倒れて顎を激しくぶつけ、一瞬目の前が闇にとざれた。 「おまえらが!」  視力が回復したのもつかの間、兵士に顔を殴られた。口の中にあふれた血は、砂と混じった。わたしとゾランが罪びとたちを逃がしたことを知っていたのかも知れない。  痛みと眩暈の中で見た兵士は、顔を赤くして再び拳を振り上げた。  刹那、空を何かが横切った。  悲鳴とどよめきで、体が揺れたかと錯覚した。  兵士は露台を見あげていた。拳を振り上げたまま、口を開けて動きを止めた。 「姫さま!」  よろめいて露台の手すりに摑まる姫さまの肩には、矢が突き刺さっていた。 「お、おまえたち、姫のいちのは」  王が言い終わらないうちに、二矢目が射ち込まれ、王がよろめきながら露台から下がっていく。  まさか、矢は、東から射こまれたのか! それは、つまり……。  わたしは頭を思いきり兵士の鼻へぶつけた。突然の出来事に気を取られていた兵士は、わたしの頭突きに昏倒した。  ぶつけた頭の痛みと、ぐらぐらと定まらない視界によろめきながら立ち上がる。姫さまはうずくまっているのか、手すりを掴む指しか見えない。  早く姫さまのところへ。立ち上がると、殴られた顔が重く感じだ。鼻から口へと血が流れ込んで、鉄臭さにむせる。なんとか足を踏み出したとき、けたたましい笑い声が響いた。  女の、場違いなまでの哄笑は、姫さまだった。長い髪が顔にかかり、矢の刺さった肩を抱いて、姫さまはふらりと立ち上がった。  みな、無言で姫さまを見つめている。繋がれた囚人も、最後まで残った兵士も。恐らくは近くにいる王たちも。  ひとしきり、姫は笑った。どれくらい続いただろう。きっとわずかの間だった。やがて笑い止むと、髪をかきあげ痩せて頬骨が目立つ顔をあげた。  わたしは姫さまが息を吸うのを確かに見た。  姫が血のにじむ肩をかばいながらも、胸が呼吸でふくらむのを見た。  花弁のような唇がゆっくりと開いていく。  露台から、歌が流れた。わたしの胸はふるえた。  高く、高く澄みわたる天へと響く歌声、まごうことのない姫さまのお声。  零れ落ちる煌めく砂粒のような、あるいは細く強靭な絹糸のような歌声は、聞いたものたちの心を一気に掴んだ。  今や動く者は誰もいない。兵士も、城壁へ上がった東の者たちも。  何度も聞いていたわたしでさえ、その場に釘づけになった。あまりの神々しさに身動きができない。姫のもとへ駆けつけるよりも、今はただ姫の歌声を全身に浴びていたい。  こんなときに、こんなときに姫さまは惜しげもなく喉をふるわせ歌われている。多くの聴衆が姫の歌声に心を奪われている。まるで争いなどなかったかのように、世界が変わっていった。  清浄な朝の光に満たされるオアシスに、姫の旋律は途切れなく流れるかに思われた。  しかし、歌は大きなうねりを超え、静かに余韻を残して物語を閉ざしていった。  歌に心を奪われた人々を、姫さまは見下ろしていた。いままで見せたことがないほどの、清々しい笑顔で姫さまはうつむかれた。  その笑顔がわたしを不安にさせた。 「姫さま!」  顔をあげた姫さまは、刹那わたしの瞳を見たかに思えた。  白い鳥が手すりに舞い降りるかのように、姫はふわりと手すりに立った。  わたしは叫びながら、動かぬ足を懸命に動かした。  塔の上から、姫さまは飛んだ。
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