ユレ

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ユレ

── ……チャン。 しっかり……さい。坊ちゃん! 「オイ!いつまで寝てんだ このボケナスがぁ」 うわあぁ。世界が揺れている。 象と亀の背中の上に乗った、 この世が大きく揺れている。 ……って、首痛いって! ムチウチになるって! 「上村様っ!それ以上はどうか! 脳震盪を起こしてしまいます」 亀谷が割って入った事により 揺れがおさまる。 アイテテテ。 女の格好をしているのに 行動が何とも男っぽいぞ、上村クイナ。 「だって!亀谷さん、 コイツが石織美昏が現れたって言うから 大急ぎで駆けつけたら可愛い顔して スヤスヤ寝てやがる! しかも確かに石織美昏は 此処にいた形跡がある。 お前どんだけボーッと生きてんだ」 「ごめん……」 執事の擬態を今も続ける亀谷が テーブルに残された紅茶のカップに 鼻を近付け 「薬ですな」とつぶやいた。 「確かに私も彼女が この屋敷を出て行く姿は見ました。 ですが、それが彼女の最終決断であれば いたしかたないのでは?」 亀谷……出て行くのを見てたんなら、 せめて声をかけるなりしてくれ。 「そりゃそうですけど……。 どうにも釈然としない。 秋山の『にこた』って 意味不明なメール見てもしやと思って エトロフからヘリで駆けつけたのに」 いや。クイナ、それはかなり 微妙な場所まで捜索活動を 繰り広げてたんだな。 まさかそんな所まで手を広げていたとは。 「亀谷さんも亀谷さんですよ。 このお屋敷で匿っているんだったら そう言ってくれたら 良かったじゃないですか。 この捜索活動に一体何人動員してると 思ってるんですか? この国を裏で動かしてるのは 亀谷さんなんですから、判るでしょ」 実際の所、何人動員したのか 気になるが……怖くて訊けない。 よっぽど悔しかったのか クイナはなかなか諦めきれない様子だ。 「匿っていたと申しますか、 いつの間にやら潜入されていたと 申しますか……。仮に此処に居る事を 把握していたとしても、 下手に動いたらすぐに異変を察知して 石織さん……いえスズメさんは 姿をくらましていたでしょう。 それにしても案の定でしたね。 どっちみち」 絡まれても柔らかく受け止める亀谷。 流石に慣れてる感じがする。 「まだ、そう遠くへは 行っていないんじゃないかな」 クイナはドアの外へと 飛び出して行こうとする勢いだ。 「上村様、残念ながらスズメさんは 擬態のプロ。ご存知でしょ? 例え追っ手が名うての手練であっても、 その上を行くのがあの方ですよ」 悔しそうに舌打ちした後、 驚きの発見でもしたかの様に クイナが俺の左腕を乱暴に掴んだ。 そして目にくっ付きそうな位 顔を近付け俺の薬指を見た。 「秋山ァ……お前、いつの間に 既婚者になったんだ」 草の指輪。 それを見て察した様に 目を細め頷く執事。 「最後のお別れに 来て下さったんですね…」 それ迄霞の様にモヤっとしていた その言葉が、形となって俺の耳に なだれ込んでくると俺は途端に 魔法が解けたかの様に 現実世界に晒された。 喉の奥に熱くチリチリしたものが 込み上げ景色が少し滲んだ。 「もう、動ける。俺は諦めない」 起き上がろうとする俺の肩を クイナは溜息を吐きながら ベッドへと押し戻した。 「零音……亀谷さんの さっきの話聞いてたのか?」 やめてくれ。零音って呼ぶのは……。 「例え追っ手がプロであっても、 その上を行くのがスズメだ。 擬態のプロ。殺しのプロ。 アイツは決断したんだ」 俺はもどかしさに 拳で白いシーツをパンチした。
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