ファムファタルの沼

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***  十万円よりも一万円の方が充実していた。うすっぺらでそのうえ握りしめた跡さえついた茶封筒が愛おしくて仕方ない。それは使うことなく、引き出しの奥に隠した。焼肉だろうが何だろうが、この諭吉を溶かしてしまうことだけは嫌だった。  図書館で生澤と顔を合わせても、言葉を交わさず、借りた本を追いかけることもしない。私も高いところから本を選ぶようになって、より好きなものを探すことができた。  そして。私たちの間に新しいルールが生まれていた。 「おい」  図書館を出たところで声をかけられる。振り返れば生澤がいて、手には茶封筒があった。私は何も言わずにそれを受け取る。何度も繰り返したやりとりだから確認しなくても中身はわかっている。律儀なこの男だから、きっちり一万円が入っているのだろう。 「今日、俺の家誰もいないから」  それだけを告げて歩いていく。同じ方向だから一緒に行けばいいのに、隣を歩かないのは生澤なりのプライドが関係しているのかもしれない。  手を繋いだことはないけれど、一万円が繋いでいる。けれど引き出しの奥に隠したお金が十万円を超えた時、私たちはどうなるのだろう。沼の奥底に恋人なんて綺麗な名前が落ちていればいいけれど。  あれから生澤は、またマノン・レスコーを借りたらしい。二度目はどんな気持ちで読んだのだろう。マノン・レスコーは男を狂わせる人だ。それはこの沼によく似ている。  引きずりこんで放さない。私が生澤を好きだから。ここは魔性の沼。
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