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第68話「小さな希望の足音⑤~魔術師よ、万衆の礎たれ」
アーヴェンと別れた後、弟との別離を悲しむより先に、ランドルフはまず状況の確認を行う事を最優先に動いていた。
塔へ辿り着くとそこは既に混乱の坩堝であり、様々な階級の魔術師たちが入り乱れ、指揮系統はほぼ壊滅状態に陥っていた。
何と言う事だ
導師格が、まるで機能していない
落胆を覚える一方で、然もありなんとランドルフは眉を顰める。
恐らく自分の失踪の原因究明に殆どの力を割いていたのだろうと予測したからだ。
上級導師の失踪とはそれほどの大事件であり塔にとっては“災害”とも言える事態だ。
特にランドルフは上級導師の中でも内政的、対外的な意味でも中核を担う稀有な存在だ。他の上級導師たちはさぞ慌てふためいた事だろう。
現状、導師たちが正常に機能していないのは彼らに指示を出す上級導師会が混乱しているからに違いない。
普段ならば幾度となく会議を行い、意思を統一してから下に投げるのだが今回はそうした時間的余裕が無く、上級導師たちの間でも意見が割れているのだろう。
幾つもの指示が同時に降って来た所為で下が完全に混乱してしまっている。
上級導師の命令は塔の魔術師にとっては公王の命令よりも意味が大きい。その方向性が定まっていないのだから、どれに従うべきかお役所務めな中間管理職である導師たちはさぞ右往左往し、頭を抱えている事だろう。
一方で、普段から適時裁量、適時遂行をある程度許されている“考えられる”魔術師たちはそれなりに奮戦していた。
避難経路の確保や怪我人の収容、暴徒と化したアヴァロン囚人の迎撃、捕縛。彼が辿り着いた時、アヴァロンのある北塔は甚大な被害を被り今にも倒壊寸前だったが目に見える脅威級罪過魔術師たちはほぼ拘束されていた。
漏れ伝える所によると、系譜に記されたローザンヌの次期当主が先導したらしい。
「若いのに、大したものだ」
確か下の息子とそう歳も変わらなかった筈。だが彼女は自己の判断と責任に於いて事を成した。そして彼女の部下もまた、各所で奮闘している。
上司の姿に部下は感化されるのか。
通常ならば役職を逸脱した行為は責められるべきだが、ここは彼女と彼女の部下たちの行動力を讃えるべきだろう。
ただーー北塔を半壊させるのは、少々やり過ぎな様にも思えるが。
ランドルフは凡その事態を把握すると罪過魔術師の残党の対処に当たっている封印魔術師の1人に声を掛けた。
ローブを見る限り、主任魔術師の様だ。
彼はこの場を取り仕切ろうとしている様だったが普段の最大5人体制とは違い、指示を出すべき部下が増え過ぎて頭の処理が追い付いていない。
「ターナス主任魔術師」
ランドルフは彼を呼んだ。
すると彼ーーターナスは勢い良く、こちらを見もしないで怒鳴る。
「指示は出しただろう!?こっちも手が一杯なんだ!!少しは自分の頭で考えてくれ!!ああ、クレスト、そっちじゃない!まだ動けそうな奴を集めて……それから!……ああ待て貴様!怪我人を放置するな、殺す気か!?少し休めばまだ戦力にーーああ!待て待て!勝手に魔術を放つな!塔が脆くなってるのが見えないのか!?」
大混乱である。
ランドルフはやれやれと溜息をつく。
指揮官がこれでは収まる事態も収まらない。
「ターナス主任魔術師」
「だから何だ!?」
もう1度声を掛けると彼は苛立たしさMAXでランドルフを睨み付けーーそして凍り付いた。
「あ、貴方は……!」
「代わろう。貴兄には少々荷が勝ち過ぎる様だ」
「ベネトロッサ、上級導師……ランドルフ卿!?」
ランドルフの顔を見た瞬間固まった主任魔術師だったが、その顔はみるみる間に歪んでいく。
「ご無事だったのですか……!」
「?無事とは?」
はてと首を傾げた。
するとターナスは唇を噛み締め、深々と頭を下げた。
「混乱の最中……上級導師会は、我らを見捨てたものだとばかり……!」
「ふむ」
どうやら自分の失踪はしっかりと優秀な次期当主たちの手によって伏せられていたらしい。
エルフェンティスめ
少しは知恵が回る様になったか
ふっと小さく目元を緩める。
いつも公明正大で隠し事や曲がった事が大嫌いな融通の効かない息子にも、いつの間にか魔術師らしい賢さが身に付いた様だ。
一方でターナスとしてはランドルフの登場は意外もいい所で、よもやこんな危険な場所に上級導師自ら足を運ぶとは思っていなかったらしい。
二転三転する定まらない指示に相当茹だっていた彼は、上級導師たちは自分たち下の魔術師を見捨て逃げたと思っていた。
だが違った。
導師たちですら混乱している状況下で、最上級の導師格が現場に現れたのだ。
上級導師など彼らにしてみれば式典や祭礼などで見掛けるだけの、王族よりも遥かに馴染みの薄い存在だ。
そんな上級導師の中でも最上に近いベネトロッサの当主自らが降りてきたのだ。
これを僥倖と言わずなんとする。
事情を知らぬ辺り
少々心苦しくはあるが……
今にも感涙しだしかねないターナスに、ランドルフは少し申し訳なく思った。
部下たちを……そして塔を守る為にこの場に来たのは確かだが、そもそもの原因は自分である。だが、今はそれを話すべき時ではないし何よりそんな事をして要らぬ諍いを起こして時間と労力を無駄にするのも現実的ではない。
ランドルフは表情を動かさぬまま静かにターナスに問うた。
「状況は把握した。指揮権をお借りしても宜しいか、ターナス主任」
「是非もない事で!」
力強く頷いたターナス。
一方で他の魔術師たちも突如現れたランドルフに目を丸くして手を止めてしまっている。
「さて、同志たちよ。混乱させて済まないとは思うが、今暫し力を借りたい」
ランドルフのよく通る声が響いた。
氷の美貌がコソコソと気配を決して逃げ出そうとする罪過魔術師を捉えた。
「第2班、左翼を逃がすな。テリス正魔術師は部下と共に下がれ。ベイカー専任魔術師、簡易防御陣展開。動ける第3班はそのまま迎撃を続行。ただし深追いはするな。アシュフォード正魔術師、済まないが入口まで走ってサレス導師を呼んできてくれ。1班、6班、12班の魔術師たちは一時後退。ターナス、どう見ても不足人員だ。班の再編を」
滑らかに出た指示に5人体制を保っていた2班と3班は即座に行動を起こす。
その間に負傷したテリス正魔術師が部下の1人に肩を借りこちらまで後退する。その時、テリスは呆然とランドルフに語り掛けた。
「ランドルフ卿……」
「テリス正魔術師、良く耐えた。礼を言う」
「いえ、それよりも……1つ、お伺いしても?」
「何だ?」
戦況を見極めつつ指示を続けるランドルフ。
普段ならば垣間見る事すら出来ぬ雲上の上級導師に、彼は率直な疑問を口にした。
「ベネトロッサ上級導師閣下は……我らの顔を、その、覚えておいでなので……?」
遠慮がちに問うたその言葉に、ランドルフははてと首を傾げる。
「可笑しな事を言うな、卿は」
「え……?」
「卿は同じ部署の同僚や部下の顔を覚えていないのか?」
「え、いや、それは……」
覚えている。
だが、それとこれとは話しが別だ。
普段から顔を合わせる同僚や部下ならばいざ知らず、話した事もない下層の魔術師など上級導師たる彼は知りもしないだろうと思っていた。
だが、ランドルフは静かに告げた。
「私はベネトロッサだ。塔は私の“部署”も同じ。なれば、そこに勤める職員は当然、把握している」
「閣下……!」
「まあ、人となりまでは知らんが。そこは余り問題ではなかろう」
実力と顔と名前さえ知っていれば問題ないと彼は言い切った。
「閣下は塔に、一体何人の魔術師が詰めておいでか、ご存知ですか……?」
「……非正規雇用の事務も併せて、高々6424人だろう?それがどうした?」
「いえ……」
「公都の全人口を把握するより容易い。名前と顔、所属、技能階級を項目化して覚えるだけなら25,696の単語を覚えるのと変わらぬ。外語の辞書ですら60万語が平均だ。1冊覚えるより、遥かに楽な事だと思うのだが?」
「……何とも、閣下らしいお言葉で」
「?」
魔術師は苦笑を漏らした。
私らしい?
彼は私の事など知らぬ筈だが
疑問に思ったが今はそれどころではない。
一刻も早く指揮系統を正常化し、事態の終息に努めなくてはならない。
自ら撒いた種は自らの手で処理せねば。
その責任があるのだからと、彼は冷静に判断していた。
「卿は質問好きだな……覚えておくとしよう」
脳裏に“テリス正魔術師は質問好き”と項目を増やした所でランドルフは正面を見据えた。
本塔には黒い終末がたゆたっていたが、そちらに手を回す余裕はない。
あちらはきっとマリウスやローザンヌといった実力ある魔術師たちが対処に当たるだろう。
ならば自分はベネトロッサとして、まずは塔の機能正常化に努めなければ。
下級の魔術師たちは自分の事をそれはもう奇異な目で見ていたが、ランドルフとしては本来、上級導師とはこうあるべきだと思う。
貴族も含め、社会的地位が上の人間には特権が与えられるが、それは責任と義務あればこそ。
そして本来貴族とは王に仕え、民に仕える者。ならば上級導師は他の魔術師たちの為ーー後の世を紡ぐ魔術師たちの為に生きねばならない。
親の愛情で一時判断を謝りはしたが、それもここで巻き返す。
ああ、しかし……
1人で手を回すには余りにも口数が足りない。せめて己に口がもう一つあれば後方に下がらせた魔術師たちへも適切な指示が出せるのだが……思考は早くとも体が足りない。
「どこまでもたせられるか……」
混乱を収めようにも、塔に竜が巣食っているのが見えれば並の神経の者ならばまず間違いなく狼狽える。
公王や民たちもさぞ不安だろう。
騎士団も出て来ている様だが、彼等は魔術師ではないし竜が絶え間無く吠え続けているから被害の方が多いかも知れない。
賢王が宮廷魔術師を同行させているのを信じる他ないが……とにかく、手が足りない。
「ランドルフ様!こちらは!?」
「ランドルフ卿、ご指示を!」
次々と訪れる魔術師たち。
指示は飛ばすものの中には短過ぎる言葉に理解が及ばず正確に機能しない所もある。
これは、課題だな
有事の際のマニュアルを見直す必要がある。
加えてもう少し現場で指揮官として振る舞える役職魔術師を増やすのも急務に思えた。
百年の平和が導いた弊害とも言えるが、今はそれを嘆いていても仕方がない。
さて、どうするか……
出来れば公王リオネルにも連絡を取りたい所ではある。
保身と言われればそれまでだが、現当主として事の責任は取りつつ、家は存続させねばならないし、今ベネトロッサを失えば塔の勢力図も大きく変わる。
そうなれば今迄自分が押さえ付けていた塔内派閥が一気に動き出す事も考えられ……ひいては再び、塔だけでなく他国にある支部も含めて大混乱する恐れもある。そうなればーー星骸の塔が、崩壊する。
それだけは何としても阻止せねばならない。
せめて“女王”が有れば有無を言わさず竜を凍結封印し、事態の早期沈静化も視野に入ったのだがーー彼女は既に解放してしまった。
あの時は弟と共に死ぬ予定だったので、結果として術者の死で従霊が解放されるのならば息子たちを逃がして解放するのと変わらないと思い解き放ったのだが……こんな事ならばもう少し彼女を保有しておくのだった。
図らずもトラヴィスの“仕返し”がここに来て大きなダメージとなっていた。
今はまだ従霊を失ったベネトロッサだと露見していないから従う者もいるが、もし力を失った魔術師だと知られたら離反する者もいるかも知れない。
危機的状況下に於いて、人とは本性を現す生き物だ。事実、指示を出し始めてから暫らくして、従霊を望む声も増えてきた。
まずいな……これは
不満は疑惑に代わり、やがて大きな不和となる。そうなれば再度混乱は必至だ。
エルフェンティスとフィーネルチアの状況を知る身としては、彼らの援護は乞えない。
せめてネイドルフだけでも
こちらに駆け付けて欲しい所ではあるが……
いや、下の息子の事だから、きっと自ら何処か危うげな場所で奮迅の働きをしている事だろう。ならばそちらはそちらで頑張って貰わねば困る。
……アマリッサがいてくれたら
つい弱音が過ぎった。
最愛の妻にして最高の盟友。
ベネトロッサの知とも言うべき才媛。
彼女がこの場にいてくれれば
多少なりと状況打開の策が練れるのだが……
妻ではあるが優れた助言者でもあり、最良の理解者でもあるアマリッサがいれば自分の気付かぬ事にも気付く事があるだろう。
「アマリッサ……」
ふと口からその名が零れた。すると
「はい。お呼びですか、旦那様?」
「な…ア、アマリッサ……!?」
突如として耳に聞こえた柔らかな声に、ランドルフは盛大に振り返った。
見るとそこには戦場に余りにも不似合いな貴婦人が木漏れ日の様な微笑みを浮かべて立っているではないか。
ベネトロッサの長女フィーネルチアがもう少し歳を取れば斯様になるだろう。金味の強いプラチナの髪をきちんと結い上げ、瞳は空色の輝きを帯びている。
誰の目から見ても、ただ一言、美しいと言うに足る女性だった。
だが、そんな彼女の登場に他の魔術師たちは現実と幻想の区別がつかず、ポカンとしてしまっている。
「これは、夢、か……?」
それはランドルフも同じであったらしい。
彼女がここにいる筈がない。そう思い目を瞬かせると、木漏れ日の貴婦人はくすりと笑った。
「嫌ですわ。そのお言葉、そっくりそのままお返し致します」
「……?」
「急にお帰りにならない時は、どうしようかと思いましたもの……てっきり何処かで“他所の花”にでも目移りなさったのかと」
「それだけは無い」
きっぱりと即答した。
しかも光の速さで。
他所の花ーー別の女に心動かされたのでは、などと妻はあっさり口にしたが、ランドルフにとっては例えそれが彼女なりの冗談だったとしても心外だったし、気持ち的な面から言ってもショックとしか言い様のない状況だった。
一方で魔術師たちは石像の様に固まっている。何しろ彼等にしてみれば雲上の人であるベネトロッサ上級導師に対して、こうもハキハキと物を言う相手がいるなど知りもしなかったのだから。
今代のベネトロッサ夫妻は貴族にしては珍しい恋愛結婚だと言われていたが、それを間近で見る事の出来る魔術師は少ない。
要因としてアマリッサ夫人は魔術師ではあるが塔の所属という訳ではなく、謂わば非正規の魔術師とも言うべき存在だったからだ。完全な魔術師的貴族と言って良い。
無論、かつて一度は正魔術師としての階級を受けてはいたが当時彼女は公王の婚約者候補でもあり、専らの公妃修行に励む様、彼女の母であるヴァンティローザ前当主に命じられていた為、職員として塔での勤務に従事した事はない。
魔術師として認知されているのは彼女の持つベネトロッサ家正妻の身分による特権であり、そうした特殊な事情からも彼女は異色の魔術師と言えた。
故に彼らは知らなかった。
この世に“氷の宰相”を普通の人間としてーーただの夫として扱う女性がいるなど、夢にも思わなかったのである。
一方でランドルフは相変わらずの無表情ではあったが彼女の誤解を解こうとモノクルのチェーンを指先で弄りながら考えていた。
いや、勿論彼としても今がそんな状況ではないと分かってはいるのだが、こればかりは仕方がない。
心は失ったものの、ランドルフの記憶には確かに彼女との記録が事細かに残されており、その余りに膨大な量からも、彼女が自分にとって如何に大切な存在であるか容易に推測出来たからだ。
心はなくとも理性はある。故に力の限り弁解したい所ではあるのだが、残念ながら今はそれよりもまず彼女に問わねばならぬ事があった。
「何故、君が」
ここに?
尋ねると妻は嫋やかに微笑みながらランドルフに近寄り
「フィーにお願いされましたの。エルに頼まれたから……ベネトロッサの魔術師として、力を貸して欲しいと」
「そうか」
では、あの子たちは無事だったのか
どうやら女王は最期の願いを、きちんと叶えてくれていた様だ。彼女の考えは人の身には余りにも難解ではあったが、従霊として……確かに術者の願いを叶えてくれた。
それが印章による強制であったか、長きに渡る二人三脚の絆からだったのかは最早確かめる術もないがーー今となっては、どうでも良い事なのかも知れない。
一方でアマリッサは頷くと、すっと優雅に手を伸ばしランドルフの頬に触れた。
急な事にランドルフは僅かに息を呑む。
意識が自然と彼女に向いた。すると妻は慈しむ様に瞳を揺らしながら安堵の息をついた。
「ご無事で、本当に……安堵致しました」
「アマリッサ……」
「無事のお帰りを、お喜び申し上げますわ、旦那様……そして」
すっと手を離すと彼女は普段の彼女からは想像もつかぬ力強い手付きで天に向かい手を掲げた。
「これより後は私しも、お力添え致します」
宣言するとアマリッサの前方の上空に巨大な魔法陣が出現した。
普段、魂の神殿に収容している従霊を呼ばう為の魔法陣。
鮮やかな菫色をした魔法陣は花の様な意匠で空中に展開されると、その中から1匹の純白の鹿に似た生き物が降りて来た。
姿形は牝鹿に似ている。だが明らかに鹿ではない。胴に届く程に伸びた長い鬣と、頭に生えた紫水晶の角を持つ事か。
「さあ、旦那様。ご命令を」
「いや、しかし……」
もしかして彼女は、自分が従霊を失っていると気付いているのだろうか。一言も話してはいないのに。
目を見開くと長年連れ添った妻は心得た様に夫の耳元で囁いた。
「真名を“ニィルネイヤ”と申します」
「アマリッサ、それは……!」
真名を他者に告げる事はベネトロッサの掟で禁じられている。真名を知られれば従霊を奪われるリスクが生じるからだ。
次期当主には無い権限ではあるが、ベネトロッサの当主には分家に対して全ての従霊の真名を保有する権利がある。
場合によっては(ここ数百年なかったが分家の反乱など)上書きを行う事で従霊を奪い、分家を無力化するのに用いられて来た慣習ではあるのだが、それは昔の事で現在は分家から伝統と忠誠の証として伝えられる事はあっても実際に“上書き”が使用される事は皆無だ。
特に本家の“家族”に於いて真名を求める慣習は最早消滅したと言って良い。
本家の結束は固く、裏切りなど有り得ないからだ。故に初めてソルシアナが従霊を召喚した時、ランドルフは従霊に真名を問うたのだ。
アマリッサは本来ヴァンティローザの魔術師であり、本家に嫁ぐ時に慣例として従霊の真名を記した書面をランドルフに提示しているが、ランドルフはそれを見てはいない。
妻となるべき人の従霊を奪う様な事態は一生起こり得ないし、真名を差し出したのは彼女なりの誠意と信頼の証だ。ならば真名を知る事は彼女の心を無碍にする事になると、ランドルフは頑なにそれを開こうとはしなかった。
だがアマリッサは緩やかに首を振った。
「私しよりも貴方の方が、きっと上手く扱えますわ」
「それは……」
否定はしない。
彼女と自分では霊層の生み出す魔力の総容量は圧倒的に自分の方が上だ。だが従霊を奪われると言う事が術者にとってどれほど悲しむべき事か、ランドルフは学んでいる。
「私しのものは、貴方のものですもの」
「そうした考えは、好きではない」
「ですが、好き嫌いでどうにか出来る状況はとうに過ぎておりますわ。何方かが、“のんびり”していらした所為で」
「う……」
ぐうの音も出ない程、華麗に封殺された。
妻は普段は夫を立てる控え目な女性だが、時折ランドルフが戸惑うほど鋭く切り込む所がある。
見た目に反して豪胆というか、何と言うか。
「さあ、ご命令を」
私しの従霊の能力は、既にご存知のはず。と彼女は美しく微笑んだ。
「済まない、アマリッサ……暫し、君の従霊を借りるぞ」
「お望みのままに」
ランドルフは召喚された従霊に手を差し伸べると霊層を起動した。回路に大量の魔力が駆け巡る。
従霊“ニィルネイヤ”よ
我に従え
命じると従霊は一瞬主であるアマリッサを見たが、彼女が静かに頷くと彫刻を思わせる見事な体躯を震わせ、それからしなやかに、その首を地面に向けてスッと下げた。
承諾の証だ。
ランドルフは従霊の意思を尊重したのだが、ニィルネイヤの意思は主であるアマリッサと共にあったらしい。
ランドルフの手に菫色の印章が刻まれた。
主としての権利がアマリッサからランドルフへと移ったのだ。
「後で、必ず返す」
「ご冗談を」
くすりと妻は笑った。
彼女は知っているのだ。
真名を掴まれ、“貸与”ではなく契約を“上書き”された従霊は2度と戻らない。
「その子の真名は、確かにお渡し致しました」
真性解放をしろと妻は言っているのだろう。
従霊本来の権能を呼び覚ます真性解放には真名が必要だ。貸与された従霊では解放出来ない。また真性解放状態も術者の技量により大きく能力の範囲が変わる。
アマリッサは知っていた。
己が真性解放を命じたとしてもニィルネイヤは非常に狭い空間でしか権能を発揮出来ない。だが、ベネトロッサを1人で背負って来た夫ならばそれ以上の力を引き出せると。
「“テレサ”、真性解放」
ランドルフが命じるとニィルネイヤーーアマリッサにより“テレサ”と銘打たれた従霊は即座に応える。
シュオンッ
光の筋が吹き上がりテレサの身体が馬程に大きくなる。蹄は輝く白金に。鬣は毛先が菫色に。そして先ほどまで穏やかな印象を受けた黒い瞳が、鮮やかな金色へと変わる。
紫角からは薄い燐光が立ち上り、体躯から涼やかな花の香りがした。
従霊テレサ。
真名をニィルネイヤ。
かつて人の世と幻獣界がまだ密接に関わっていた時代、“有りと有らゆる場所に同時に現れる事が出来た”神獣だ。
「テレサ、“私を混乱が強い場所へ”」
テレサは心得た様に角から光を弾けさせた。
と同時にランドルフの頭に複数の光景と、その場に居るであろう魔術師たちの驚く顔が次々と浮かびあがる。
同時刻、違う場所に同じ人物が現れた。
実際はニィルネイヤの能力で“そこにいると認めさせている”状態な訳で、全ての情報を判断し采配するのはこの場にいるランドルフただ一人だ。
だが、口の数は圧倒的に増える。
ランドルフは脳裏で思考した内容を全て同時処理をしながら塔の至る所で采配を奮った。
その様を見てアマリッサはそっと夫の腕に触れ、僅かにこの場にいる彼の意識をこちらに向ける。
「どうした?」
尋ねるランドルフ。
とてもではないが、複数の状況を同時処理しているとは思えないほど彼は冷静だった。だが、そんな彼でも手の回らぬ場所がある。
アマリッサは告げた。
「私しは公城へ参ります」
「……アマリッサ」
「見た所、今のテレサとの繋がりでは塔の近辺が限界でしょう」
テレサと術者の関わりが弱い以上、如何に優れた魔術師であれ、能力を振るうには限度がある。またランドルフは今しがたテレサを得たばかりだ。使い慣れぬ従霊を駆使するのは術者にとっても大きな負担になる。
例えそれが、ランドルフでもだ。
「陛下との連携は私しにお任せ下さい」
「……出来るか?」
気遣う様な眼差しに、アマリッサはおっとりと微笑むと
「当然ですわ。私しはベネトロッサ。貴方の妻ですのよ?」
「……!」
「伊達に他家のご令嬢を押し退けてまで、その座に収まった訳では御座いませんの」
「アマリッサ……」
「こちらは私しにご一任下さいませ。必ずや、ベネトロッサの優位に事を運んでご覧に入れます」
微笑む彼女はいつもと変わらぬ優しい母であり、愛しい妻であったがーー確実に強かな魔術師だった。
「それに、私しはベネトロッサで唯一、“表情筋が死滅していない”珍しいベネトロッサですもの。旦那様はご存知ですか?女は微笑み一つ、涙一粒で世の中を思いのままに動かす事が出来ますのよ?」
「いや、それは……目の当たりにした事はないが……君が言うと、何とも恐ろしい台詞に聞こえる」
「あら、では一度“女の本気”をお目に掛けませんと。どうぞ存分に体感なさって下さいな」
くすりと笑うと妻は夫に優雅に一礼した。そして静かに背を向けると、来た時と同じく、いつの間やら姿を消し、去って行く。
風の様な女性だとランドルフは苦笑した。
だが、あれでこそアマリッサだ。
自分が愛し、また自分を心から愛し許してくれる、この世でただ一人のかけがえなの無い女性。吹けば折れそうなほどか弱く見えるが、彼女もまた魔術師であり、同時に貴族としても政治手腕に定評がある女傑だ。
陛下との連携は任せよう
彼女ならば、上手く運んでくれる
何の疑いもなくそう信じられた。
彼女に無理ならば自分が行っても同じ事だ。
ならば信頼して任せる他ない。
ランドルフは精神を集中させた。
どんな状況であろうが最後まで諦めない。
塔の存続も、公国の安寧も。
「“魔術師よ、万衆の礎たれ”……」
かつて師が教えた塔の魔術師として有るべき姿を初心に返って思い描く。
魔術師は魔術師だけでは存在出来ない。
国があり、友があり、そして支え認めてくれる全ての存在があってこその“魔術師”なのだと。
罪は償おう。
罰は受けよう。
だが今は、この国に生きる民と、これからを生きるであろう子供たちの未来の為に全力を注がなければ。
守ってみせる……
そう決意した。それにしても今更、この年になって当たり前だと思っていた塔の理念を口にする羽目になるとは。
「ふっ……復唱して褒められなくなったのは、何時からだったか」
心を失ったベネトロッサの当主が頭に残る記憶を辿ると、己に教えを授けた師たる魔術師の姿が浮かんだ。
彼ーーいや、彼女か。
どちらが正しいのかは分からないが、あの人にも後できちんと謝罪をしなければ。
化け物などと、随分な事を言ってしまったから。本人が一番気にしている事だと分かっていた筈なのに。
泰然としている師だったが、実はかなり繊細な心の持ち主だと、かつて愛弟子と呼ばれた魔術師は知っていた。
「マリウス導師……」
どうかご無事で
師の大切にして来たものを壊したのは自分だ。ならば、納得の行くケジメの付け方を示さなければ顔向けも謝罪も出来やしない。
「正念場だな」
色んな意味で。
ランドルフは呟くと人智を超えた能力を遺憾無く発揮し、守るべきものを守る為、その力を振るうのだった。
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