七話 失ったもの

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 七話 失ったもの

 バスローブをまとい、濡れた黒髪をかきあげながら歩いてくる姿に、ジョシュは我知らず唾を飲む。  男らしい艶のある、色気の滴るような湯上がりの姿だった。 「お前も入ってくるか?」 「いいえ。もう少し後で頂きます」  格好いい、とレイナルドの艶姿を賞賛しつつ、ジョシュは冷静に状況を把握する。自分の服をソファの背に引っかけると化粧台に向かい、湯上がり用に並べていた小物の中からブラシを取ると、再び部屋にとって返した。 「レイナルド様」  ブラシを持ったジョシュを見て、レイナルドはソファに腰を降ろす。その手には、先ほどジョシュが放り出した服があった。 「これは何だ?」 「僕が明日着る服です。従僕っぽいでしょう?」  ジョシュはレイナルドの後ろに回り込むと、ブラシを構える。ブラシの握りには魔術印が彫られているのだ。そこに魔力を流し込みながら髪を梳けば、あっという間に乾燥が終わるのである。 「……生地に品がないな。背中の開きも大きすぎる」  レイナルドは辛辣な批判を服に向けた。  貴族の審美眼でそう判断されてしまえば、ジョシュに反論出来るはずもない。  レイナルドの髪を梳きながらしょんぼりと肩を落とすジョシュ。それを察したレイナルドは、いささか焦ったように言葉を継ぎ足した。 「こうした服を着たいのであれば、昔の従僕達の物を出してこさせよう。カーラにスリットを入れてもらえばいい」  因みに今ジョシュは白シャツ一枚の姿だが、シャツは人間用の中古品に自ら羽用のスリットを加工したものだ。何の工夫もない単なるスリットなので、背中の露出はほぼ無い――要するにそういう物がふさわしいのだろう。 「ではそのように致します」 「とりあえずはそれで間に合わせてくれ。お前の服の手配もバリーに頼んでおく」 「……宜しくお願いします」  一瞬断ろうかと思ったジョシュだが、自分の衣類の貧相さを思い出して頷いた。品格だ。この邸の品格にそぐわない服装でうろつく訳にはいかないので、仕方が無いのだ。 「レイナルド様、このお屋敷には従僕は居ないのですか?」  応接間で紹介された使用人で全員なのだろうか。 「居ないな」 「ではレイナルド様の身の回りのお世話はどうして居るのです?」  バリーも応接間で別れて以来、顔を見せる気配もない。 「大概のことは自分で出来るからな。特に置いていない」 「おや、じゃあ髪を乾かさずに出てきたのはどうしてなのです? まさか普段は自然乾燥なのですか」 「だって面倒だろう」  そんな問答をする間にも、レイナルドの髪はジョシュの持つ魔法のブラシで梳かれ、乾いていく。 「ではこれからは、僕の仕事――ということで」  仕上げに丁寧に形を整えると、ジョシュは満足げな息を吐いた。 「終わったか。ありがとう」 「どういたしまして」  その後レイナルドに促されて風呂に入ったジョシュは、湯上がりにレイナルドの襲撃を受けた。突然響いたノック音に反応できずにいるうちに、ドアを開けられてしまったのである。 「な、なんです……?」  まだバスローブを纏っただけの姿である。濡れて水の滴る髪にタオルを当てていたジョシュは、警戒して羽を広げようとするが、バスローブの分厚い生地の中でもごつかせただけとなった。 「そこに座るが良い」  レイナルドはほぼ無表情でジョシュを見返し、化粧台の椅子を指し示した。  一体どうするつもりなのかと恐々としながら、言われるままに腰掛ければ、レイナルドはブラシを持ち上げる。先程レイナルドの髪を乾かすのに使った、魔術印付きのブラシである。 「レイナルド様……?」 「これは、魔術印を握るだけでいいのか?」 「へッ、あ、はい、そうです」 「出力の強弱などはないな?」 「――ない、ですよ……? だって、それじゃあ魔力の強い不器用さんは、髪を焦がしてしまいますもの……」  なので基本的な生活用品は、触れるだけで使用できる簡素な構造になっている。  それを知らないレイナルドは、本当に自然乾燥を貫いて来たのだと知れる。なんとなくこみ上げる笑いを堪えていると、レイナルドは真面目くさった顔つきでブラシを握り込んだ。 「なるほど……」  ブラシの穂先を指でつついて確かめながら、ジョシュの背後に回り込み、濡れた髪にさくっとブラシを通す。レイナルドは髪に触れて乾き具合を確かめつつ、それを繰り返した。  鏡越しにそんな彼の様子をじっとうかがうジョシュ。  主人に世話をされるなど大変恐れ多いことだが、このまま続けさせていいものか。  だが、レイナルドは真面目くさった顔のままだが、よく見れば、目を輝かせているではないか。 (まさか、やってみたかったのかな……?)  ぎこちない手つきだが、髪に触れる手は優しい。  気持ちの和んだジョシュは、ふと肩の力を抜いた。  その晩は普通に二人で眠り――羽の関係で寝間着を着ない習慣のジョシュと、とにかく何か着ろと怒るレイナルドの間で一悶着あったが、結局はひとつのベッドで二人並んで寝た――、翌朝、ジョシュは寝坊した。 「うわっ」  明るさに驚いて跳ね起きる。ばっと視線を巡らせれば、レイナルドの姿は傍らにも部屋の内部にもない。  ジョシュはベッドから飛び降りるとクローゼットに飛び込んで身繕いを整え、部屋を出た。走ることはせずしかし早足で、バリーがいると思われる作業室に向かう。 「おはようございます」  ノックの返事を待ってドアを開け、深々と礼をする。 「申し訳ございません。寝坊致しました」  使用人の誰かだと思っていたのだろう。帳簿とペンを手放さないままでいたバリーは、飛び込んで来たジョシュに驚いたようだった。だがすぐに気を持ち直し、立ち上がると礼を返したのである。 「ジョシュ様、おはようございます」  主人や客人に向ける丁寧な礼をされて、ジョシュはやっと我に返った。 (――……のつもりでいた)  懐かしいヒース邸で目覚めたせいで、メイベル奥様に仕える小姓に戻ったように錯覚していたのだ。 「……あ、すみません」  いたたまれなさに縮こまるジョシュを、バリーは穏やかに見つめた。 「朝食――いえ、昼食は如何なさいますか?」 「……お水だけでいいです」  食事のことは昨晩レイナルドにも訊かれていたが、淫魔は人間のような食物は必要としない。食べて害がある訳でもないし少量の魔力は摂取出来るものの、手間に比べて実入りが少ないのだ。味覚はあるので食べること自体は好きだが、食べなくても死なない。なのにそんな自分が、モリーに手間を掛けさせるのは気が引ける。 「左様でございますか。――それではお持ちしますので、レイナルド様のお部屋にお戻り下さいますか? 後ほど、カーラもお伺いすると思います」  大人しく部屋に戻ると、カーラの方が先にやって来た。  カーラは従僕の服を腕に抱えている。どうやらレイナルドが話をつけてくれていたらしい。彼女から『明日には服飾店が採寸に訪れます』と聞かされ驚いていると、ジョシュの普段着や寝間着を注文するそうだ。品格だ、とジョシュは再び己に言い聞かせる。  カーラは従僕服をジョシュの背に当てて、羽用のスリットの長さと位置を測った。早速加工に取りかかるというのを説き伏せ、二人で裁縫仕事に勤しむ。彼女に「お上手ですね」と褒められて、ジョシュは嬉しくなってしまった。何故なら、ジョシュの針仕事の先生は彼女だったからだ。  魔術印の発達した昨今では家事が簡素化されたせいで、どこも人手を絞っている。しかし魔術印で片付ける事の出来ない細々とした手仕事は、やはり存在するのだ。なので、形式的に執事や従僕、小姓や家政婦やメイドと区分されるも、皆それぞれを手伝った。故に、バリーは帳簿付けの師であったし、カーラには裁縫を仕込まれ、モリーには料理を教わった。ベンと共に庭で土を捏ね、レンガを積んだことだってある。みんな大切な、教師だった。  仕上がった従僕服を早速着付けて仕上がりを見、カーラの太鼓判を貰ったジョシュは、そのまま庭へ出てみた。  夕暮れが近い秋の庭は、赤みを帯び始めていた。広葉樹が色づき、地を覆う草花たちは精彩を失い始めている。ナツユキカズラの白いアーチをくぐり抜け、ジョシュは庭の最奥へと足を向けた。  レンガ積みの壁で三方を囲われた庭は、中央にパーゴラを設え、内部に青銅製のチェア一脚と小さなテーブルを据えていた。一段高くなったその周囲を、様々な種類のヒース達が取り巻いている。  秋風にさらされて尚咲き乱れるヒースの庭は、昔と変わらぬ姿でそこにあった。  ジョシュはそのことにほっとして、庭の入り口にしばし立ち尽くした。  あまりの変化のなさに、ここだけ時が止まっているかのようだ――だが、あのチェアにメイベルは腰掛けていないし、ジョシュもあの頃の茶髪の人間の少年ではない。 (シュウ――)  優しく呼びかけるメイベルの声が、今にも聞こえて来そうである。だが、そんなものは錯覚だ。すでにジョシュは、メイベルの声を忘却していた。  当たり前のその事実に衝撃を受けて、ぎゅっと拳を握り込む。 (だって――だって僕はこのお屋敷に帰ってこれなかった。普通の日常のつもりでいたのに……出先で事件に遭って死んだから。そして十年も経ってしまって……奥様は亡くなられた)  きちんとお別れを言いたかった。否、本当は別れたくなどなかった。茶髪の少年のシュウのまま、小姓としてこの邸で勤め続けたかった。そうすればレイナルドとも、たとえ二人の関係が変化しようともずっと関わりを保ち続けることが出来たろうに。 「……シュ」  不意に名を呼ばれて、ジョシュはびくりと跳ねた。  断絶した己の人生を思い返しているうちに、随分と時間が過ぎていたらしい。レンガ積みの壁は夕陽に紅く染まり、小さな庭には深い陰影が刻まれていた。 「レイナルド様……?」  振り返ると、臙脂色の騎士服を着込んだレイナルドが立っていた。 「お前が庭に出たまま戻らないと聞いて探しに来た」  気付けば、腕を掴まれている。そんな事にすら気付かず呆けていた己に驚いた。 「すみません。お出迎えするつもりでしたのに」 「いや、居るならいい」  そんな風に答えるレイナルドは、どうやらジョシュの逃亡を危惧していたようだ。 「逃げませんってば。お別れの時には、ちゃんとご挨拶してお別れします。そう、したいんです」  だって別れを言えないお別れの方が多いのだから――そう言えぬまま、ジョシュはレイナルドに掴まれた腕を解くと、彼の手を握り返した。彼の指先は、固く冷えていた。 「この先の庭には立ち入らないでくれ。ここは、墓所だ」  レイナルドは思いがけない事を告げた。  メイベルは、フィルグレス家の墓所ではなくヒース邸のこの庭を、己の青山(せいざん)としたのだろうか。
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