ⅩⅥ

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ⅩⅥ

「……その話をしてくれるのかい?」  声に興奮が混じったのを嗅ぎ取ったのか、ローレンスの質問にアリスは黙り込んだ。焦りすぎたとローレンスは後悔し、その後しばらくそのことには触れないことにした。  だがもうあの晩から二週間経っている。そして今ローレンスが部屋に入った時もアリスは彼のパソコンで、自分の事件を調べていた。ローレンスと出会うまで一緒だった男たちは定住所すら怪しい者が多かったせいか、彼女は携帯電話はもちろんインターネットの使い方も知らなかった。  ローレンスが教えると、飲み込みは早かった。検索にも慣れ、彼が見ていない時もしょっちゅう触っているようだった。 「ありがとう」  ローレンスがココアの入ったマグを差し出すと、アリスはそれを受け取りながら、さりげなくノートパソコンの液晶部分を閉じた。  だがアリスは知らない。検索履歴が残ることを。  アリスが昼間眠りについている間、ローレンスはパソコンを覗いていた。  履歴には複数のキーワードが残っていた。  リンドレィ・キルギス、ヒューバート・モリスン、ジョン・モートン、神の恵み、クレア・ハーディング、ウィリアム・ローレンス、シカゴ警察、ラペル、ランバート、ポーランド、トマス・クレアモント……  トマス・クレアモントという名だけ、ローレンスが知らないものだった。その名でローレンスも検索してみたが、同姓同名の男が数名でてきただけで特に気になるものはない。アリスもそれ以上、その中の誰かを調べたりはしていないようだ。  しかしローレンスは直感した。 ――この男だ、彼女の最初の相棒(パートナー)は。  そして男は現在ポーランドにいるのではないか。 「アリス……君はいつから、アメリカに?」  慎重に、しかしさりげなく、ローレンスは質問した。コーヒーを飲みながら、なにげなく。 「おおよそ一世紀前になるわね」  アリスは答えた。 「ということはイギリスから船で?」 「そう。あの頃は私たちも乗客として乗れたわ……昼間は篭りきりの妙な客ではあったけど」  ”私たち”というのは、おそらくアリスとトマス・クレアモントのことだろう。  ローレンスは彼のことを聞き出したくてたまらない気持ちを抑えた。  アリスを永遠の夜の世界へ引き込んだ吸血鬼。  そして現在確認されている【吸血鬼事件】としての最古の記録が、一九六〇年のニューオリンズの殺人。仮に被害者をアリスの二番目の相棒とするならば、二人は半世紀近く共にいたということになる。だが彼らの間に何か決定的なことが起こり、二人は(たもと)を分かったのだ。ただ、これはあくまでローレンスの推測に過ぎない。 「アリス……君の気持ちが知りたい」  まるで恋人を口説いているみたいだとローレンスは苦笑した。そんな彼をアリスは訝しげに見つめ返す。 「前に聞いたよね? 僕を君の相棒(パートナー)にする気があるか」 「……ウィリアム、あなたが変わり者で正直助かったわ」 「違う。そういうことを言いたいんじゃない。……君の今までの相棒と僕の希望する相棒は全く別物だ」  ローレンスの言葉をどう勘違いしたのか、アリスは初めて彼に対して嫌悪の表情を向けた。 「私はぺドの相手はしないわ。今までもこれからもね」 「ああ、そう思ったのか。やめてくれ。そんなことは希望していない。ただ……僕を対等に扱って欲しいんだ。クレアモントのように」  その名を出したとたん、アリスは目をむいた。飛びかかられるかと内心震えたが、ローレンスは努めて平静を装った。 「……パソコンを覗き見ていた。検索したら足跡を辿れることをわざと教えてなかった」 「なんですって?」 「そして今、君が座っているベッドの下のスーツケースを見ることだって、僕にはいつでも出来る。だけど、していない。見たのはパソコンの履歴だけだ」 「ふん」 「……強気だけど、アリス、君はしばらく身動きが取れないことはわかっているよね? だから僕の言う通り、この部屋から出ないようにしている」  自分の言った事が図星なのは、アリスの唇が屈辱に細かく震えていることでわかった。ローレンスはやはり自分が優位に立っていることを実感した。 「アリス、この国を出たいと思わないか?」  ローレンスの提案にアリスは顔を上げた。  「どうでもいいことかもしれないけれど、移住は君に出会う以前から計画していたことだ。ルーマニア辺りに行ってみたいが、住むとなるとあまり現実的ではないし、実際住むのは……フランスにしようかと思っている。しばらくそこで暮らして書きたい作品があるんだ」 「何が言いたいのか……わからないわ」 「はは……わかってるはずだ。僕とヨーロッパへ逃げた方が今の君には得策だということを」 「ヨーロッパね」  落ち着きを取り戻したのか、アリスの表情は人形のように固まっていた。 「今から半年ほどかけて移住の準備をするつもりだ。あの女刑事ですら僕を怪しんではいないだろうけど、急に目立つことはしたくない。そしてそれまでに考えてもらいたいんだ。君の決意が固まったら、僕を真の”パートナー”にして欲しい」 「……だから『真のパートナー』って何のこと?」  冷ややかな目でアリスに問われ、ローレンスは息を飲んだが、ひるまなかった。 「僕を……君の仲間にして欲しい」 「ははははっ……何を言ってるの?」 「レーズンみたいに干からびたくないからね。君の非常食として使い捨てられるのはごめんなんだ」  本気だということが伝わるようにローレンスはじっと彼女を見つめ返す。 「……前に、生きのびるために鼠の血をすすったことは話したわよね?」  アリスはベッドの上で立ち上がった。その時の動作で、彼女が幽鬼だということに気づかされる。まるで宙に浮いたかのように、ベッドはわずかな軋みもたてなかった。 「あなたは……わかってない。永遠の刻をまるで至上のように思っているけれど、生きている喜びが失われるということなのよ。美味しかった食べ物は砂を噛むような味になるし、当たり前のように青い空を見上げ、暖かい春の陽射しを肌に感じることも……永遠にない」  そう語るアリスの表情に初めて苦悩を見た気がした。だがローレンスにはわからないことがある。 「君が永遠の刻に飽いたと言うのなら……なぜ今まで生きている。陽の光を浴びれば……塵に還るはずだ。なぜ君は終わらせようとしないんだ?」 「……あなたを……干しブドウにしてやればよかった」  ローレンスの指摘は、彼女の核心を突いていたらしい。鋭い目で睨みつけてきた。親の仇でも見るかのように。  だが、ローレンスも退くことは出来ない。退くこと=死であった。彼は死ぬつもりは毛頭なかった。 「……なら、今、そうすればいいだろう」  自信はあったが、目を閉じると自分の身体がかすかに震えるのをローレンスは感じた。 「……こういうの、”ムカつく”と言うのかしら? 今どきの言い方で」  アリスの悔しさが滲む声にローレンスは目を開けた。  ひとまずは勝った。  やはり彼女はヨーロッパに戻りたがっている。 「半年……あなたの覚悟とやらを見せてもらうわ」  想像以上に移住の準備には骨が折れた。  エージェントからアドバンスは支払われたが、結果的にデュランの映画化の話は途中で立ち消えた。しかしローレンスはそれでいいと思った。アリスに出会う前なら二つ返事で引き受けた話に違いないが、そんなものが霞むほど魅力的なものが目の前でドアを開こうとしている。  やがてローレンスはアリスから信用を勝ち得た。移住費用を提供してくれたのだ。  彼女は大金を持っていた。赤いトランクの中に詰まっていたのは札束だった。 「いまどき現金なんて……と思うでしょうけど」 「いや。足跡を追いづらくなるね。銀行から下ろしてしまえば」 「ええ。何もかも準備をしてから……もらいにいくの。その際、パートナーとは別れることになっている」  アリスは詳しく話したがらなかったが、この大金はクレアモントが送金してくれたものだろう。彼以外にありえない。  そして送金のことは、もちろん今までの相棒には教えなかったに違いない。金のことを知られた瞬間、たちまち彼女は殺されてしまう。  あるいは相手を操り、そんな気さえ起こさせなかったのだろうか。  アリスに初めて血を吸われた時、すでにわかっていた。恐怖の先にあった恍惚感は……アリスが獲物を思い通りにするための麻薬のようなものだった。  ローレンスはアリスのために月に数度、自らの身を差し出した。ただ初めて吸血された時のような危うい状態になることはなかった。アリスが加減していたからだ。  かわりに何度かローレンスは真夜中に車を走らせ、大都市の裏路地でアリスを降ろした。闇の中、彼女が戻ってくるのをひたすら待つ。戻ってきた彼女の肌の張りや艶、生き生きとした血色の唇を見るだけで、何をしてきたのか想像はつく。  初めての時は人殺しに加担した良心の痛みが多少あったが、それもほんのわずかなものだった。そもそも後悔するくらいなら、こんなことはしていない。  アリスが自分を試しているのをローレンスもわかっていた。彼女の正体を知りながら、彼が恐れ慄くことなく付いてくるかどうか。  そう、ローレンスが望む彼女の仲間となった暁には、彼自身、通常の神経ならば当然嫌悪する行為をせねばならないのだ。実際、喉笛に噛みつくことが出来るかはわからない。ただ、恐ろしいからと言ってやめられはしない。たとえば、この抗えない好奇心を「覚悟」と引き換えに問われるならば、彼は躊躇しないだろうと思った。その考えは半年経っても変わることはなかった。 「さて。荷物は新しい家へ送った。後は僕たちが向うへ行くだけだ」  深夜、がらんとした家を見回し、ローレンスはアリスを見た。  このまま予定通り事が進めば、二人はのんびりと船旅でヨーロッパへ渡ることになっている。そのためにパスポートの件も含め、数々の違法行為を重ねた。だが、それすらもローレンスには興奮する経験だった。悪漢小説(ピカレスクロマン)の主人公のように振る舞った。 「……で、君の判断は? 僕は君の期待に()えただろうか?」  アリスは微笑んだ。話をしなければ、無邪気な八歳の少女にしか見えない。 「答えは……これよ」  アリスはローレンスの肩を軽く突いた。反動で後ろへ倒れた彼の両肩を強く掴む。その手が渇きに震えているのを彼は感じた。  アリスの牙が喉に喰いこんだ。  こめかみに響く……彼女の喉を自分の血が流れていく音。  彼の生命力が奪われていく音。  アリスが途中で口を離した。  そして自分の手首を噛むと、あふれ出る血をローレンスの喉の傷へ落としていく。  もう後戻りは出来ない。  ローレンスはドアを開けてしまった。  彼女の血と自分の血が混ざりあっていく……それは恐怖と快楽がせめぎ合う悪魔の口づけだった。  END     
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