臆病な顔

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 熱い。  熱風を感じる。  ―――パチパチ―――パキッ――――  なんか、臭いな…。  燃えてる?  目を開けると、天井を這い回る炎が目に飛び込んできた。  火事だ!  俺は咄嗟に飛び起きて、窓を開けた。背後から猛烈な熱気と煙が襲ってきて、堪らずそのままダイブする。  二階の窓を飛び出ても運よく物置があって、地面に落下することははかった。  近所からまばらに人が出てきて、叫んでいた。 「消防呼んだぞ!」 「東海林さん! 晴馬くん!」  近付いてきたおじさんに両親の消息を尋ねられても、俺はまだ寝惚けていて頭が回らなくて。  さっき見た炎が、生きている獣のように窓からチロチロと大きくて赤い舌を突き出した。  俺の部屋がもうあんなに燃えている。 「もっと、離れないと!」  誰かに肩を掴まれた。      * 「晴馬!」  姉ちゃんが俺を抱きしめる。病院の青白い蛍光灯の真下で、小さな火傷や擦り傷を手当てされた俺に抱き着いた姉貴は震えて泣いていた。  棺桶が二つ。並んでる。  真っ黒い人間だった塊が収められてから、ここに届いた。  小さい頃、子供会のイベントのたびに訪れた町内会館のホールに畳を敷き詰めて、町内会の大人の手で質素な葬儀が営まれていく。  何も感じない…音のない、色のない、温度のない、世界。  眠れない……。  あの日、あの夜。  俺がもっと二人の間に入って喧嘩を止めていれば、誰も死なずに済んだのだろうか?  珍しく酔っ払った親父とつかみ合いの喧嘩になった母さんは、床に投げ飛ばされて肘を打った。すぐに起き上がって車のキーと財布だけ握りしめて、勢いよく飛び出して行ってしまった。残された親父は、クソガキみたいな悪態と雑言を唾を飛ばしながら叫んでいて、とばっちり喰うのがいやで、俺はヘッドホンを付けたまま自分の部屋に逃げ込んだ。  四角くて白い大きな箱が並ぶ簡易祭壇の前に、喪服を着た姉貴が座って消防の人から説明を聞いた。俺は離れた壁に凭れて、しわしわによれた制服姿のまま外の空気ばかり吸っていた。  微かに、途切れ途切れに聞こえてきた報告だと、出火原因はガスコンロ。  二階の自室に上がる前に、俺が火を消していれば良かったんだ。  日に日に深まる秋風の冷気が、俺の心の芯まで冷やす。  体温を奪われていく薄ら寒さ。  一緒に燃えて死ぬこともできなかった、この虚しさ…?  俺がそばにいながら、死なせてしまった両親にどんな顔向けたら良いのかわからなくて。全部姉貴に引き取って貰った。男と駆け落ちするように出ていった姉貴とは、一緒に暮らせないし。  ―――眠れない。  眠るのが怖い…。また、大事な人を失うのが怖い。  怖いよ―――。      *  いつの間にか寝てしまっていた。息苦しさに飛び起きて、窓を開ける。四月の早朝の風はまだまだ冷たい。息が白く、ブルリと寒気が走った。全裸なんだから寒いに決まってる。  適当に部屋着を着て、汚してしまった夏鈴のマフラーをぬるま湯でやさしく洗いながら、後味の悪い夢を振り返った。  俺は、何もしなかった自分が許せなかったのだろうか。  それとも…。  それにしても、なぜ母さんは戻ってきたんだ。  廊下で重なり合って倒れていた二人。火事に気付いて、助けに行ったのかもしれない。小柄な母さんが、大柄な親父を引き摺って逃げようとしたのかもしれない。  なんで、喧嘩していたのかも今ならわかる。親父は嫉妬に狂っていた。母さんが本当に浮気していたのかなんて、俺にはわからないけど…。  もしも、頭を冷やして戻ってきた家が出火していたら、俺でも躊躇いなく家の中に飛び込むだろう。そして、愛する人が自分のせいで深酒して眠りこけていたら、担いででも助け出したくなる。そこに躊躇はない。  母さんは、親父を助けるつもりで一緒に死んだのか。  自分を信じてくれない頑固一徹なクソ親父を見捨てられなかった?  目を背けてきた両親の問題に、自然と意識が向かう。  家族になりたい人が出来たせいだろうか。  そういえばまだ、墓参りにも行ってなかったな。      *  金曜日の早朝、先祖代々と彫ってある墓石の前にしゃがんでいた。古い町営墓地の中腹にある東海林家の墓の裏に、親父とお袋の名前が並んで彫ってあった。これを見るのは初めてだ。 「ずっと会いにも来なくて、悪いな…」  返事はもちろんない。自分以外誰もいない墓地なのに、どこからか線香の匂いがする。思い立って来たから、花も水も持っていない。仏になった両親に手を合わせた。 「意気地なしで、自分のことで精いっぱいで、随分時間かかっちまった」  情けないが、これが俺なんだ。仕事をどんなに頑張っても、テクニックで女を啼かせても、満たされないのはこの大きな穴のせいだったんだな。親の死から、逃げたんだ。  突き付けられた孤独。どこかで俺は両親あんたたちを恨んでた。今、こうして生きていることに、どんな意味があるのかわからなくなっていた。  ―――夏鈴の体温が、俺の命綱だった。  でも、こんな臆病な俺じゃ、夏鈴には申し訳なくて―――。  東京に行けば生まれ変わると思っちまった。  大学行って、得意なことで成功して、親父みたいに自営業の社長になれば、夏鈴に相応しい男になるかもしれない。ふわっとした発想だったけど、確かに俺は東京行きの飛行機の中で、想ったんだ。  俺はあの頃から、夏鈴と生きようとしていたのか。 「俺、夏鈴と幸せになりたい。なれるかな?」  ―――なってもいいだろうか?  なぁ、親父。お袋…。何か、言ってくれ…。  振り返ると、灰色の空の下には空と同じ色の海が広がっていた。まばらに見える漁船と、飛び回るカモメとトンビ。フキノトウが枯草の隙間にあちこちで顔を出している。  霜が降りたせいで湿っぽい石段を下りていくと、寺の坊さんが丁度こちらに歩いてきているのに気付いた。 「晴馬じゃないか?」      *  墓地から少し離れてはいるが、海を臨む丘の上に立つ立派な寺に連れて来られた。熱々の緑茶がどでかい茶碗に淹れられて、盆のまま渡された。  親父とお袋の同級生の柿谷さんは、寺の後継者とあって穏やかそうでいて、かなり鋭い。今、親代わりになってくれるとすれば、間違いなくこの人以外に思いつかない。 「先週、悦子ちゃんが来てくれたよ」 「そうですか」 「お前がいつ来るか、楽しみに待っていた」 「……」 「お前、俺に聞きたいことはないのか?」  唐突な質問に何のことだかわからない俺は、露骨に不機嫌な顔を向けた。 「その顔、親父さんそっくりだな。はは」 「…質問は、親父は本気でお袋が浮気してるって思ってたのか?」  柿谷さんは、ギョッとして俺を見詰めた。想定外の質問だったらしい。じゃ、想定した質問が何なのか逆に興味がわいてくる。 「…は、もういいです。嫉妬するなんて見苦しいってあの時は思ったけど、愛する妻が他所で自分以外の男と親密にしている疑惑があったら、きっと俺だって嫉妬に狂うでしょうからね」 「好きな女でも、…いるのか?」  柿谷さんがまじまじと俺を眺めている。  最後に会ったのは十年前。もう高校生のガキじゃないからな。 「いますよ。こっちに戻ってきて、やっと…」  そこで言葉を切った。それを話す前に、どうしても聞きたいことが(ひらめ)いたから。 「親父が嫉妬した相手って、柿谷さんでしょ? お袋とどれぐらい仲良かったんですか?」  柿谷さんは眉一つ動かさずにじっと俺を見つつ、ふいに笑った。 「…俺は相談をされていたんだ。雄馬(晴馬の父)に自分の病気をどう伝えれば良いか迷ってた。何度も言い出そうとしたけど、言うのが怖くて途中でやめてしまうって。まさか、それで俺と篤子(晴馬の母)の関係を雄馬が疑っていたなんて、今初めて知ったよ」  涼しい顔をしているが、目が動揺していた。こんな大人でもやっぱり怖いものがあるのだ…。  それにしても、お袋が病気だったなんて初耳だ。姉貴は知っていたんだろうか?  でも、今はそっちよりもこっち。 「火事の夜。お袋、一度はどこかに飛び出して行ったんです。行った先はここだったんでしょ?」 「…そうだ」 「どんなこと話したんですか?」  柿谷さんの額から、玉のような汗が伝い落ちていく。  本当に不倫関係…なんて、あったのかもしれない。  いや、少なくても柿谷さんがお袋のことを…。 「実はな、俺と篤子は昔恋人だったんだ…」  なんて言いにくそうに言うのだろう。秘密を打ち明けるって、こういうことなのか…。  重さがそのまま伝わってきて、俺の掌まで汗ばんでくる。 「篤子の病気は偶然知ったんだ。彼女は余命一年しかなかった…。だから、俺は…もう一度だけ」  ――――ああ、そういうことか。 「もう一度、彼女を抱きしめたくて。嫌がる彼女を無理やり、抱いた」  朝っぱらからとんでもないカミングアウトを聞いて、俺は震える手で額を支えた。 「…抱いたって…それって……」 「お前も大人の男なら、わかるはずだ。俺は僧侶だが、自分の煩悩を完全に消し去るほど立派な坊主じゃなかったんだ……」 「…っ……!!」 「火事は悲劇だった。赤く染まる夜空を見て、篤子は飛び出して行ったよ」  ―――― これを聞かなくちゃいけなかったのか?  わからないけど、今どうして自分がここにいるのかはお袋のはからいのようにも感じる。 『自分を責めるな、お前に罪はない』  そう言われている気がする…。  涙が……溢れた。      *  どれぐらい泣いたかわからない。  時計を見たら、もう八時を過ぎていたから。一旦深呼吸をして落ち着いてから学校に遅れると連絡をして、俺はもう一度墓石の前に立った。 「お袋…。ありがとう」  自然と零れた感謝の言葉だった。  でも、親父のことを想うと、まだ少し苦しい。  いや。親父たち夫婦のことは、俺がとやかく口を挟む問題じゃないことは、今だからわかる。  さっき、寺を出るときに柿谷さんが言っていた。看護婦のお袋の病気は、子宮頸がんだったと。それは姉貴はもう知っていて、姉貴が看護師になったきっかけはそれだったらしい。女同士で支え合っていたんだ。親父と俺だけ知らされていなかった話。情けないけど、なぜ言わずにいたのか、何となく想像がつく。  ―――頼りにされない男にだけは、なりたくない。  親父のやけ酒は、恰好悪いったらないな。  人生が終わっていくことも打ち明けられない夫婦関係。  なんだよ、それ。  それにしても、俺、親父のことも知らないのか。  親子とか夫婦とか姉弟とか…それ以前に、一人の人間として彼らを知るべきだったんじゃないのか。  臆病なままでも、向き合うことはできる。  俺も醜態だらけだし、人のこと偉そうに言えないし…。  嗚呼、だから今なのか。  ―――帰る理由は、これだったのかもしれないな。 「今度はちゃんと花と線香と、彼女連れてくるわ」  俺は今やっと、歩き出した。
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