#91

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「…本気で言ってんのか?」 半ば呆然とした彼の声に、律はうつむいたまま、もう一度うなずいた。 「全然意味が分かんないんだけど。…理由は」 投げやりに問われる。 「…自分の気持ちが分からなくなったの。結婚のことを考えると、どうしても迷いが消えなくて…少し考える時間が」 「は?今更何言ってんだ、お前」 顔を上げると、表情を失くした真の(さげす)んだような視線とぶつかる。 「ほんとにごめん…」 律はもう一度、先ほどよりも深く頭を下げた。  二人の間に重苦しい沈黙が落ちる。 長く続くかに思われた無言を破ったのは、真の方だった。 「…やっぱり、その男なんだな」 何かに勘づいたように、ぽつりとつぶやく。 「あの日、俺のところに来なかったのは、あいつとホテルに行きたかったからか?」 「だからそれはっ…酔っぱらった弟さんの作り話なの。彼は本当にただの知り合いで、この事とはなんの関係もない」 「なら、なんであの日俺のところに来なかった?お前の中では婚約者よりもただの知り合いの男の方が優先順位が高いのか?」 「そんなこと…でも、あんな急に呼ばれて行けるわけないでしょう?私にだって予定があって」 「その気になればいくらでもやりくりできたはずだ。それなのにお前は何もしなかった。連絡さえよこさないで…まぁホテルでお楽しみじゃ、それどころじゃないよな」 「真が疑ってるようなことは何もなかった!何回言わせるの?誤解させるようなことになったのは悪いと思ってるけど…!」 「何が誤解だよ。信じると思うか?それで?婚約を破談にしたくなるほどあいつはよかったのか?」 真は口の端をつり上げ、あからさまに品のない笑いを唇にのせる。 「律」 支配的な声音で名を呼ばれ、律は条件反射で身を固くする。  真は自分の優位性を示したい時に、いつもこんな風に名前を呼ぶ。 彼の瞳には、弱い者を(なぶ)ることへの愉悦が浮かんでいるのが分かる。 (ひる)んで、視線を逸らしたくなるほど。 「前に浮気したことは悪かったと思ってる。お前と別れてから俺は反省したんだ。もし、お前とやり直す機会が与えられるなら、今度は大事にしようって。実際、するつもりだった。なのに今度はお前の方が」 「だから、婚約を取り消してほしい理由は浮気じゃないの。他に好きな人ができたからじゃない。本当に自分の気持ちの問題で…」 「見えすいた嘘はやめろ」 「…嘘じゃない」 「じゃあ何で奴はあの時こんなセリフを吐いたんだ?」 真がスマホを操作した。 『―…悪いがそれは無理な相談だ。なぜなら今から彼女は俺とホテルに行くんだ』  彼のスマホから流れてきた音声に、律は凍り付く。 詩織の声だ。 あの日、桐ケ谷森林公園(きりがやしんりんこうえん)に出かけた時の…
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