第16話 背中のぬくもり(後)

1/1
117人が本棚に入れています
本棚に追加
/28ページ

第16話 背中のぬくもり(後)

王子駅を降り、飛鳥山公園を左に見ながら王子神社の方へ向かった先に、茉莉花が住んでいる家があった。 隆司と由佳が茉莉花の家に向かった。 拓也は、さすがに家の前で不審者のようにウロウロするわけにはいかないので、すぐ近くの王子神社で二人の帰りを待つことにした。 午後4時30分、隆司と明日香がインターホンを鳴らすと、茉莉花と母親が二人を歓待した。 手土産を渡すと、母親が「あら、羽二重団子。美味しいのよねぇ。ありがとうございます」と言った。 隆司と由佳は、まず、芳子の位牌のある仏壇に線香をあげた。そして隣の居間で、茉莉花親娘と談笑した。 母親は、「折角持ってきていただいたので、早速」といいながら、羽二重団子とお茶を出した。 「後で、ケーキも食べてね。ランギャール(王子にある洋菓子店)でケーキを買ってあるの。隆司兄さん、好きだったでしょう」 「ありがとう。ランギャールのケーキ、大好きなんだ」隆司が言った。 「隆司兄さんのお嫁さん、綺麗ねぇ」茉莉花が感心したように言った。 「茉莉花ちゃんも昔から可愛かったけど、綺麗になったねぇ」隆司が言った。茉莉花が嬉しそうに微笑んだ。 茉莉花は由佳に好感を持ったようだ。茉莉花は由佳に対しても気を使って接した。ただ、少し、羨む気持ちが混ざって、時々複雑な表情を見せた。 話しが一段落したときに、隆司が切り出した。 300万円の入った袋を出して、「これは、芳子さんに『出世払いでいいから』と言われてお貸りしていたお金です。少しだけ出世したのでお返しに来ました」隆司にしてみれば精一杯の冗談を交えながら言った。ただ、だれも笑わず、完全にスベった。 「まさか・・・」茉莉花の母親が驚いた。芳子がそんなにお金を持っていたとは信じられなかった。 「お借りしたお金です。どうぞ受け取ってください」 突然の申し出に戸惑いながらも母親が応えた。 「ありがとうございます。茉莉花が留学しようと頑張っているので、助かります。でも、本当に母がそんな大金をお貸ししたのですか?」 「ええ、本当です。芳子さんには何でも相談していました。就職できそうなのも、結婚したいけれどお金が無いと言うことも」 「おばあちゃん、隆司兄さんのこととても気に入っていたようだから、そうだったのかもね・・・」茉莉花が言った。 受け取って貰えて、隆司はホッとしたようだ。 しばらくして、茉莉花がケーキとコーヒーを持って来た。 「美味しいね、ランギャールのケーキ」隆司が言った。 「隆司兄さんが来るとき、お婆ちゃんがいつも私に買いに行かせてたのよ」 「えっ? そうだったんだ」 「そう。いつもはスーパーの安いショートケーキなのに、隆司兄さんが来るときだけはランギャールのケーキなの」 「それは、大変な目に合わせたね。知らなかった」 「私もケーキを一緒に食べられるので、楽しみだったよ。孫のようだと言って、隆司兄さんが来るのを楽しみにしてた」 茉莉花と隆司は同時に『二人結婚すれば良いのに。そうしたらお婆ちゃん、長生きする甲斐があると言うもんだ』と芳子が二人に言っていた事を思いだした。 隆司は茉莉花がまだ中学生だったので(つまり恋愛の対象では無かったので)『茉莉花ちゃん、美人になりそうだから楽しみだね』などと言って話を合わせていたが、茉莉花は十分に隆司を恋愛対象として意識していた。ただ、それを伝えるにはまだ、幼すぎた。そして伝えないまま、隆司が東京を離れた(実際には自首した)のだ。 「うん、本当に可愛がってもらった」隆司の元気が少し無くなって来ていた。 「お婆ちゃん、詐欺に遭ってかわいそうだった。直接、暴力を振るわれた訳では無いけど、お婆ちゃん亡くなったのは、それが原因だったと思うの。でも、警察がその組織を壊滅してくれて、(かたき)を討ってくれたけど」 茉莉花の家を訪問すれば、当然、当時の特殊詐欺の話題も出る。それは、想定していたしそのための打ち合わせもした。なので、由佳は隆司が上手く受け答えをすると思っていた。 しかし、隆司はそうでは無かった。黙り込んでしまったのだ。 隆司が黙り込んだので茉莉花は何か知らないうちに失言をしたのかと、不安になっていた。 隆司は由佳の方を見て言った。 「由佳さん、いいかな?」 由佳は隆司が何をするつもりか判った。 これから彼がする事は,この場での由佳の立場を無くす事だ、と隆司は言っているのだ。だから由佳に了解を得ようとした。 「ええ、構いません。どうぞ、存分に」由佳が後押しをした。 隆司は黙って、仏壇の前に行き、芳子の位牌に目を瞑って手を合わせた。 一分もの間、何も言わずずっと手を合わせた。その間、誰も何も言わず、静寂が覆っていた。 隆司は手を合わせたまま、口を開いた。 「茉莉花ちゃん、お母さん、許して下さい。僕なんです、お婆ちゃんを死なせたのは・・・」そして、自分たちの詐欺グループが芳子のお金を奪った事、自分が警察に捕まり収監されていた事、このお金はせめてもの罪滅ぼしにと持ってきた事、を話した。 隆司があまりにも自分を弁護しないので、由佳が慌てて芳子の件に隆司は関わっていない事、隆司の話が切っ掛なのだが隆司はお金のことなど一切話していない事、芳子が詐欺に合ったと知り隆司が組織を壊滅させた事、そして自分は恋人屋本舗のスタッフであること、などを付け加えた。 「隆司兄ちゃんが詐欺・・・」茉莉花はショックを受けて呆然としていたが、やがて口を開いた。 「お婆ちゃんが貸したお金じゃないよね。だったら受け取れません」 仏壇を向いていた隆司が、茉莉花と母親の方を向き、手をついて頭を下げて言った。 「これを渡したからと言って、許して貰えるとは思っていない。ただ、受け取って欲しい」 「許せる訳など・・・」 その時、茉莉花は隆司が組織を壊滅させたと言う事を思いだした。 警察が解決に時間が掛かる、と言っていたのに結構早く解決したのは、隆司のおかげだったのだ。 お婆ちゃんの敵を取ってくれたのは隆司・・・。 「許せる訳など・・・」茉莉花がもう一度言った。 『許せる訳など無い。お金を持って帰って! 二度と顔を見せないで!』これが本来言わなければいけない言葉だと判っているのだが、どうしてもその続きが言えない。 隆司は頭を下げたままだ。茉莉花の顔は心の苦しさで歪んでいる。 由佳には茉莉花の気持ちが痛いほど良く判った。 祖母が死ぬきっかっけを作った隆司が憎い。でも、おそらく、隆司を慕う気持ちも強い。なにせ、自分(由佳)が隆司と何の関係も無い、と判ったのだ。何とか隆司を許す理由を見つけようとしても見つからない。茉莉花自身がどうして良いか判らなくなっている。 茉莉花の困惑している表情に由佳がいたたまれなくなって、茉莉花に声を掛けた。 「茉莉花さん、お手洗い案内してくれない?」 「はい」ホッとしたように茉莉花が立ち上がった。 二人部屋を出たところで、由佳が小声で言った。 「茉莉花さん、隆司さんを無理に許さなくてもいいんじゃ無い?」 「え?」 「許せないんでしょう?」 「・・・はい」 「でも、好きなんでしょう?」 「・・・はい」 「許さなくてもいいじゃ無い。その上で、好きだという気持ちを伝えて見たら? 許さないと好きになれない訳じゃないでしょう?」 茉莉花は暫く考え込んだ。 「自分の気持ちに素直になって。無理に納得しようとすると、それを正当化するために、また偽りの感情を作りだしてしまうよ」由佳が付け加えた。 「偽りの感情?」 「憎いのに憎くないと思い込もうとする。好きなのに好きでは無かったのだと思い込もうとする。それは心の重荷になる気がするの」 「・・・そうですね」何となく納得して茉莉花が応えた。 「素直に言えば、後悔しなくて済むかしら・・・」茉莉花が続けた。 「つまり・・」 「つまり、隆司兄さんが憎いけど好きだ、と。矛盾してますよね。憎ければ好きにならなければ良い。好きならば許してあげれば良い。それが普通ですよね」 「そうねぇ。正直、私もどちらが良い結果になるかは判らない。でも、どうせ後悔するなら、素直に行動した結果の後悔の方が、納得出来る気しない?」 「そうですね。このままでは、どうにもならないですものね。ありがとう、由佳さん」 茉莉花は今日、隆司に好きだと伝えようと決めた。隆司が詐欺組織に属していたと告白した以上、今日はお金を渡すために来たが、今後、隆司が茉莉花の家に来ることは絶対に無い。チャンスは今しか無い、と思った。 二人は部屋に戻った。 隆司は頭を下げたままだった。 茉莉花の母親が「隆司さん、もう頭をあげて下さい」と言っていたが、隆司は「いえ、受け取って貰えるまでは」と頭を下げ続けていた。 茉莉花は隆司の前に座って言った。 「隆司兄さん、お金は受け取ります。だから頭をあげて」 「本当かい? ありがとう」 「それに言っておくことがあります」 「はい」 「私は、隆司兄さんを許せない」 「当然だ。許されるとは思ってないよ」 「でも・・・、でも、私は隆司兄さんが大好きなの」 「え?」 「付き合って下さい」 「でも、僕はお婆ちゃんを死なせてる・・・」 「ええ、だから許せないと言ってます」 「僕には、茉莉花ちゃんに付き合って貰える資格など・・・」 「隆司さん、あなた男よね」由佳がそこで口をだした。 「あっ、はい、一応・・・」隆司がしどろもどろで応えた。 「人が人を好きになるのに、どんな資格がいるの?」 「あっ、いや~」隆司は答えられなかった。 「資格は、『その人を幸せにする』という想いを持って行動するかどうか、だけよ」 「それは持ってる」 「だったら、男なんだからグズグズしてないで、しっかりしなさいよね」これはセクハラになるのかな、と思いながらも由佳が言った。 「はい、すみません・・・」 「年下のそれも女の茉莉花ちゃんが、好きだから付き合って欲しいと言ってるの。そこに良心の呵責なんて入る余地は無い。茉莉花ちゃんは、別に、あなたに負い目を感じさせて、付き合ってもらおうなんて思ってない。付き合えないのなら、そうだとハッキリ言ってあげて」 「付き合えない、なんてとんでもない!」隆司が慌てて言った。 「じゃあ、付き合うのよね」 「はい、でも・・・」と言いかけて、黙った。由佳にまた怒られそうだ。 そう、でも、茉莉花の事を考えると、色々と考えなければいけない事がある。 「『でも・・』の部分は二人でどうするのが良いのか考えて行けば?」 「そう・・・だね。それが言いかもね。ただ、これだけは・・・、茉莉花ちゃん、僕は君を一生大事にするよ」 茉莉花は涙ぐんで言った。「ありがとう。それだけで十分・・・」 何も言わなかった母親が口を開いた。 「良かったねえ、茉莉花。お婆ちゃん、茉莉花と隆司さんを一緒にさせたがっていたからね。これはお婆ちゃんの(おぼ)()しだよ、きっと」 それには由佳も同感だった。何となく裏で芳子さんが仕組んだのでは無いか、と思えてきた。 由佳と隆司が茉莉花の家を出たとき、隆司が言った。 「今日は何て嬉しい日なんだろう。僕の人生で最高の日です」 「良かったです。本当に」由佳が言った。 王子神社で待っていた拓也と合流し、日暮里へ戻ってきた。 由佳は日暮里へ向かう途中で、訪問結果を拓也に話した。隆司と茉莉花が付き合う事になった事を話すと、嬉しそうに「それでこそ、恋人屋本舗の本分だ」と言った。 「何だか、とても清々しいわ。とても達成感があるの」 その気持ちは、拓也も良く判った。恋人屋本舗の所員はみんな知っているだろう。だから、たいした金にもならないのに、所員(スタッフ)を続けている。 ただ、これで由佳も所員になると言い出さないか、心配だった。 「ところで、隆司さん」拓也が言った。 「はい」 「お父様と長い間会っていませんね」 「ええ」 「どうしてですか?」 どう表現するか迷ったようで、少しの間、沈黙があった。 「僕の未熟さ故です。お父さんは血の繋がっていない僕を我が子として愛しみ育ててくれていたのに、僕はそんな気持ちを踏みにじって、後ろ足で砂を掛けて家を出た。そして、詐欺組織に加わり逮捕までされた。会わす顔が無い、とは、まさにこの事です」 そこまで言って気がついたような表情をした。 「今日も会わす顔が無い方に会いに行きましたよね。『会いに行かなければ』というその気持ち、とても立派でしたよ。服役を終え、そのまま茉莉花さんから逃げようと思えば逃げられたのですから」拓也が言った。 「そうですね。もう逃げちゃいけない。僕はまだ、母親との約束を守っていない」 「約束?」 「約束と言うよりも言い付けかな。お父さんに謝れ、お父さんと仲良くしろ、お父さんを頼む、この3つです。機会を見て会いに行きます」 「それがいい」と言いながら、拓也はホッとしたように微笑んだ。 電車は直ぐに日暮里駅についた。改札口では中村が待っていた。 「お疲れ様でした。まずは『あづま家』(日暮里にある古い喫茶軽食の店)で休憩しましょうか。恋人屋本舗はお役に立てましたか?」中村が訊ねた。 「ええ、十分に。期待以上の結果です。ありがとうございます」隆司が言った。 「では、報酬は予定通りに」 「はい、特別手当をお支払いしたいほどです」 中村は「え~、それはありがとうございます」と言ったが、由佳が睨んでいるのに気づき「いえ、お見積もり通りの額で結構です」と言い直した。 隆司が笑いながら続けた。 「なんて言えば良いのかなあ、恋人屋本舗は良い決断が出来るようにしむけてくれる。『こうした方が良い』とアドバイスをするわけでは無い。でも、一歩前に踏み出す決断を(うなが)してくれる。自分で決めるということが大事なんですよね。それを手伝ってくれるんです」 「それは良かった」中村も嬉しそうだった。依頼内容を忠実に実行する、というよりも、依頼内容の本質を考えそれを実現できるように、自然と所員が動いている。 中村と隆司が並び、その後ろを拓也と由佳が歩いて、あづま家に向かった。 「ところでどうして、あづま家?」由佳が拓也に訊いた 「うん、ある人が待ってるのさ」小声で拓也が答えた。拓也は王子神社で待っている時に事前に中村から聞かされていた。 だから、戻る時に隆司に父親のことを訊いたのだ。 そして会うだろうという意志も確認していた。 「隆司さん、あづま家でお父さんがお待ちです。会われますか? 寄らなくても結構です。無理はしないで下さい」中村が言った。 隆司は驚いた表情をしたが、直ぐに応えた。 「会います。会いたい!」 中村は、笑顔であずま家の扉を開けた。 ソワソワしながら待っていた隆司の父親が、隆司の姿を認めると「隆司!」と言って立ち上がった。 隆司が近くに寄ると、言葉を続けた。 「隆司、すまなかっ・・(た)」その言葉を隆司が遮った。 「謝らないで、お父さん。謝るのは僕です」隆司が逮捕されて、父親はどれほど会社に居づらかっただろう。それでも、何回も接見に訪れた。隆司はそれを全て断った。父親は本を毎月差し入れた。最初は鬱陶しいと思ったが、父親の教養と隆司への思いで厳選されたその本が待ち遠しくなった。 父親は隆司が心を閉ざしていると思い込み、その心を開かせようとしていたのだが、隆司は父親に申し訳なく、会うのが怖かったのだ。 謝ることがどれだけ勇気の要ることかを隆司は知っていたし、それを踏み出さなければ本当の意味で前に進めないことも知っていた。 「すみませんでした、お父さん。僕を実の子のように大切に育ててくれてたのに、僕は下らない反発をし・・」今度は父親が隆司の言葉を遮った。 「お前は俺の自慢の息子だよ、隆司。一緒に暮らそう。お母さんと生活したあの家で、また一緒に暮らそう」 「はい!」 隆司と父親はコーヒーを飲みながら話しを続けていた。隆司は母親がどんなに父親に感謝していたのかを、母親との最後のやり取りの様子を話して伝えた。 父親は、その話を聞いて涙ぐんでいた。 二人が対面している間、恋人屋本舗の3人は別のテーブルに座って思い思いに飲み物を飲んでいた。 「由佳ちゃん、ご苦労様」中村が言った。 由佳は嬉しそうに微笑みながら言った。 「でも・・・」 「でも?」 「でも、いつもシナリオから外れてしまうのよね。シナリオ通り進んだこと無いんじゃない?」 「ははは、そうだね。所員は、みんな目的をしっかりと認識している。そのために何が必要かを考えて行動するから、外れる事もあるのさ。と言うよりも外れる事の方が多い」中村が答えた。 「目的?」 「そう、『すべては依頼人の幸せの為に』だよ。由佳だって、隆司さんの為には本当のことを言った方が良いのではと思ったんだろう。だから、隆司さんを、そっとけしかけた」拓也が言った。 「うん、そうなの。でも、心配だった。良い結果になってホッとしてる」 「よく頑張ったよ」拓也が褒めたので由佳は嬉しかった。 「ところで、隆司さんのお父さんとも知り合いなのですか」 「実は、僕の隆司君の弁護は国選じゃ無いんだよ。お父さんに頼まれた。出所後の就職先もお父さんに依頼されてたんだ。当然、近況も時々伝えていた。最近の隆司君の頑張りを、とても喜んでいたよ」 その時、隆司の父親が声を掛けてきた。 「先生、家に帰ります」父親は弁護士の中村しか知らないから先生と自然に言ったのだ。 「本当に色々と長い間お世話になりました」父親が言った。 「由佳さん、さっき、人生で最高の日だと言いましたが、最高の上がありました」隆司が言った。 「今なら、なんだって頑張れそうなほど、気持ちが晴れてます」隆司が続けた。その気持ちは、由佳にも良く判る。 「では、今日はこれで。お礼はまた後日お伺いします」 あづま家を出て別れたが、方向が途中まで同じなので、隆司親子が前に、そして少し離れて中村、拓也、由佳の三人が、夕焼けだんだんに向かって歩いていた。 離れているので良くは聞こえないが、隆司は茉莉花の事を話しているようだ。 父親が驚いた様な顔をして「良かったなぁ。早くその()に会わせてくれ」と言っているのが判った。 隆司が少し照れたように「直ぐに紹介するよ」と言ったその時、夕焼けだんだんの端にいた男が隆司の方に向かって大股で近づいて来た。 手にナイフを持っているのが見えた。 「ん・・・? 隆司さん、危ない!!」その姿を認めた拓也が叫んだ。 その声とほぼ同時に、父親もその男をみとめ、隆司をグッと引き寄せ自分をその男と隆司の間に割り込ませた。 隆司は何が起こったのか一瞬判らなかったが、自分の前にはだかる父親が崩れ落ち、相手の顔が見えた。 「部長!」ナイフで襲ったのは隆司が所属したいた詐欺組織の部長をしていた男だった。 「隆司!」そう叫んで、隆司を襲おうと、もう一度ナイフを引いたとき、中村がナイフを持っている手を蹴り上げた。 ナイフが宙を舞って地面に落ちるよりも早く、中村と拓也は男の後ろから跳びかかり羽交い締めにして地面に押さえつけた。 押さえつけられながら男が叫んだ。 「貴様のせいで、俺の人生はメチャクチャだ!」 詐欺をしていたのだから逆恨みも甚だしいが、彼にしてみれば落ちこぼれの人生の中で、組織のラインとなり唯一の成功体験だったのだろう。隆司よりも遙かに重い懲役刑を受け、出所したばかりだった。 「由佳、救急車と警察、電話だ!」拓也がそう言って、由佳を振り返った時、既に由佳は電話を終えていた。 男は暴れて二人がかりで抑えていた。 拓也が言った。 「所長、何とか俺だけで抑えてる。早く止血を」 「解った」そう言って身長に中村は男から手を離した。 中村は父親の腹の傷口に手を当て、止血しようとしたが、父親が息をする度に、ドクドクと血が流れ出る。 肝臓と固有肝動脈を切っている様で、止血できなかった。 中村が拓也の方を見ながら、小さく首を横に振った。 中村が離した傷口に隆司は(無駄と判っているが)手を当てながら言った。 「お父さん、しっかりして下さい」 「隆司、怪我はないか・・・」 「はい、どこも。救急車が来ます」 「直ぐに来ます」由佳が言った。 中村は取り押さえるのに苦労していた拓也に加勢して、完全に抑え込んだ。 父親は、もう助からないと覚悟したのだろう。「隆司、家へ帰ろう」と言った。 「え?」 「母さんと暮らしたあの家へ帰ろう」 隆司は瞬間、考え込んだが直ぐに言った。 「解りました。帰りましょう。おぶります」隆司も覚悟したのだろう。 「え? でも・・」由佳が驚いた様に何か言おうとしたが、拓也が制した。 隆司は父親を背負った。傷口がものすごく痛むハズなのに、父親は小さく「ウッ」と呻いただけだった。 子供の頃、あんなに大きいと思っていた父親が、背負うと軽かった。 父親を背負いながら夕焼けだんだんの階段を一歩ずつ慎重に降りていった。 「由佳ちゃん、すまないが後ろを付いていってくれないか。俺たちは、ここで警察を待つ」 「はい」 傷口から流れ出た血は隆司の背中を濡らし、道に垂れた。 夕焼けだんだんの近くは、まだ観光の人通りが多かった。男の大人が大人を背負う図が少し異様なので人目を引いたが、血を流しながら歩いている事に気がつくと、みんな驚き、恐れて道を開けた。 夕焼けだんだんからは夕陽が綺麗に見えた。 夕焼けだんだんの階段の途中で父親が言った。 「昔、ここでお前おぶった事がある」 「はい、覚えています。上野動物園の帰りでした。お父さんの背中はとても広かった」 「俺も、お前を背負ったときの温もりを今でも覚えている」 階段を降り、谷中銀座を進んで言った。 狭い通りは賑わっていたが、二人の姿を認めた人達が後ずさりし道を空けた。 「目が覚めた時にたくさんシュークリームがあって、嬉しかった」隆司が言った。 「ああ、喜んでいた」 「母さんが、買いすぎだと怒っていました」 「ああ、そうだった・・・・楽しかったな」 「ええ、楽しかった。もう直ぐです。お父さん」 「ああ・・・」 3歩、4歩、5歩と歩みを進めたときに、背中から声がした。 「隆司・・・」 「はい」 その答えに返事は無かった。 隆司の肩に掛けていた手がダラリとしたに落ちた。 「お父さん!」 隆司は父親を背負ったまま少し振り返り、父親の息を確認した。 もう息はしていなかった。 隆司はその場でしゃがみ込み、声を殺してしばらく泣いた。 「隆司さん・・・」由佳が小さく声を掛けた。 隆司が呟いた。 「バツダ・・・」 『え?』実際にはほとんど声にならない声で、由佳が訊いた。 「罰だ。『ずっと後悔して生きろ」という罰に違いない」 怒りと悲しみと諦めの入り混じった、絞り出すような涙声だった。 『そんな事は・・・』もしそうだとしたら理不尽だと由佳は思った。 「帰りましょう、お父さん」隆司が小さく呟いた。 隆司は力を振り絞り父親を背負ったまま立ち上がって、谷中銀座から家へ向かう細い通りに入り歩みを進めた。 「まだ、温かい・・・」 よみせ通りを向かってくる救急車のサイレンの音が近くに聞こえてきた。 「あと少し・・・、家はすぐそこです、お父さん」 由佳は泣きながらその後を付いて行った。 第16話 完
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!