第17話 慰謝料を渡したい

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第17話 慰謝料を渡したい

5年前の谷中、恋人屋本舗の事務所。 ドアを4回ノックする音が聞こえた。 「どうぞ」 中村(恋人屋本舗の所長)が応えた。 その声に導かれ、初老の男性が入って来た。 中村は4回のノックで山野の来訪だと判った。 大抵の日本人は2回か多くて3回しかノックしない。山野は長かった海外での生活で「プロトコール・マナー(世界基準マナー)」が身についており自然にいつでも4回以上ノックしていた。 「こんにちは山野さん」 中村は明るく迎え入れ「さあ、どうぞ」と古びたソファーに誘い、そして続けた。 「家賃ですよね。もう少し待って頂けませんか」 山野は恋人屋本舗が入っている建物のオーナーだった。 半年前に開業した恋人屋本舗だったが、4ヶ月で準備した資金が底を突いた。 先月は何とか工面して遅れながらも払ったが、今月は全く目処が立っていなかった。 中村に勧められソファーに座った山野が静かに言った。 「さて、もう少し待ったら、家賃を払っていただけるのかな?」 嫌みな口調ではなく、ごく自然な問いかけだった。つまり、山野も、たぶん払えないだろう、と判っているみたいだった。そして続けた。 「どうも、仕事が順調な様子には見えないが・・・」 実際、開業以来、知人の紹介で何件か仕事はしたが、商売を維持するには全く不足していた。 「はあ・・・、まあ、その通りです」 中村はインスタントコーヒーを山野に出しながら言った。 山野はそのコーヒーを一口だけ飲んで、カップをテーブルに置いた。インスタントコーヒーが山野の口に合わなかったのだが、そんな素振りは見せず自然に振る舞うところが山野を紳士らしく見せている。 「今日は、家賃の催促ではなく仕事を頼めないかと思って、お邪魔した」 中村は意外な申し出に驚いたが、直ぐに「喜んで。山野さんのご依頼でしたら、勉強(安くするという意味)させていただきます」と応えた。 それに対して、山野が少しため息交じりに、また静かに言った。 「中村さん、自分の仕事に誇りを持っているなら、あまり軽々しく値引きなど口にしなさんな」 「はあ・・・、すみません」 「第一、あなたが儲けてくれなければ、私は家賃を払って貰えない」 「・・・ごもっともです・・・」と意気消沈して中村が応えた。 「まあ、その人の良さがあんたらしいのだが」 さて、褒めているのかけなしているのか、判らないなぁ、と思いながら中村が訊いた。 「で、ご依頼というのは?」 山野の依頼というのは、長く付き合っている女性がいる。その女性と別れたい。ついては恋人役を世話して手伝って欲しい。と言う内容だった。 「山野さん、いくらオーナーの依頼でもそれは出来ません」中村は憮然として言った。 「第一、そのような別れさせ屋なら、探偵社がいくらでもやっているじゃないですか」 一般に別れさせ屋を使う理由は色々だ。 典型的なのは、新しく好きな人が出来たので、今付き合っている人と揉めずに別れたい、と言うものだ。 たとえば、既婚の男性が新たな女性と付き合いたいが、そのまま離婚を申しでても承知してくれないだろうし、離婚できても慰謝料が必要になる。 そこで、別れさせ屋に頼んで、相手(配偶者)にハニートラップをしかけ、浮気現場(と思えるような場面)を作り、それを証拠に離婚を迫る。 当然、非が相手方にあるように見えるので慰謝料は払わなくてすむ。 という、まあ、少し卑怯な理由が多い。(と、筆者は思う) 契約するときに商売の内容は説明したはずだが、恋人屋本舗という名前から、そのような商売だと誤解させたのだろうか? 実際に同類の問い合わせも何件かあった。 「あんたの商売は理解しているつもりだよ。その早とちりも治さんとな」山野はニヤっと笑いながら言った。そして真顔に戻って説明を続けた。 「別れたい女性の前に、新しい恋人役として同席して欲しい。憎まれ役なので大変だろうが、よろしく頼む。出来るだけ、相手に憎まれるようにして欲しい」 「何故、わざわざ自分に非があるように振る舞うんですか?」 「できるだけ憎まれて、そして慰謝料を渡したい」 「え? 慰謝料ですか?」 「そう、慰謝料」 「確認ですが、慰謝料を払いたくない、ではなく、慰謝料を払いたい、ですか?」 「そうだ」 「え~っと、一応言っておきますが、山野さんとその女性の関係なら、法的には、そもそも慰謝料を払う義務はありませんが・・・」 山野は既婚者だったので、その女性とは婚外恋愛になる。 山野夫妻はもう10年以上別居している。原因は、山野の海外長期出張中の奥さんの浮気だった。まだ山野夫妻が40歳前半だった頃の事だ。 浮気が発覚し見せかけの夫婦関係になったが、単身の長期出張が続いていた山野はそれに向き合う暇も無く時間だけが過ぎた。 そして、定年を迎えた山野は離婚を申し出たが、合意できないまま別居生活に入って今に至っている。 その後、7年前に知り合った女性と一緒に暮らしている。 そこまでは、中村も知っていた。 その女性と別れたいと言っているのだ。 「それ(慰謝料の事)は知っている。でも、できるだけ多くの金銭を残してやりたいんだ。とても世話になった」 渡してやりたいではなく、残してやりたい、という言い回しが気になり中村が訊いた。 「山野さん、何があったのですか?」 その問いかけに、山野が静かに応えた。 体調がすぐれず病院へ行くと、余命を宣告されてしまった。ステルス性の胃癌だった。 「もう、この歳だ。寿命なら諦めも付く。ただ、気がかりな事を残したくはない」 そう言ってからしみじみ思い出すように目を瞑って呟いた。 「学生だった時の思い出は輝いている。仕事はそれなりに面白かったし、やり甲斐もあった。でも終わって(定年になって)みると、夢の如く、何が残ったのかな、という感じだよ。その意味で、今が一番楽しく充実している。その時間をくれた彼女に感謝している。彼女は良く尽くしてくれた。だから、彼女が路頭に迷うのはとても困る」 「では、正直にそう言って、遺産として渡されたらいいのでは?」 「家内が離婚に同意していない。遺産相続の下らない争いに巻き込みたくない」 中村は少し考え込んでから言った。 「なるほど、判りました。どの程度、渡したいのですか?」 「預金は、このボロビルを買ったので一千万ほどしか残ってないが、ここと家内が住んでいる本郷にある家を売却すれば1億円にはなるだろう。できれば全部渡したいが、せめてその半分だな」 「判りました。では早速手配しましょう。相手は梓(恋人屋本舗所員第一号:30歳後半)でいいですか? 時々出入りしていたので、ご存じかと思いますが」 「ああ、あの少し色っぽい人妻だな。私には少し若いが、年寄りが色ぼけする女性として最適の年齢だよ。フミ(相手の女性)に呆れて貰うためも彼女が良いと思う」 ん? 色っぽかったかな? と思いつつ中村が応えた。 「では、準備に数日下さい。用意が調いましたらご連絡いたします。念のために確認しますが、本当に()いんですね?」 「ああ、構わない。よろしく頼む」 ・・・・・・・ 数日後、恋人屋本舗で梓はシナリオを受け取っていた。 「え~、こんな台詞を言うんですか?」 「そうだよ、仕事だから」 「清楚で理知的な大人女子の私には似合わないなぁ」 「だから、仕事だってば」 自己評価と他人の見る目は、かくも食い違うものかと呆れながらも中村が言った。 数時間後、ホテル椿山荘東京のロビーラウンジ「ル・シャルダン」で山野と落ち合った。 山野が一人で座っている。梓は隣のテーブルの席に座ってスタンバイしている。山野に呼ばれたら登場する段取りだ。中村は反対側のテーブルの席で様子を見ている。 相手の女性(福田フミ)が到着し、山野の姿を認めて近づいて来た。もう、60歳近いがスッと背筋が伸び、そしてとても美人だ。 「宗佑(そうすけ)(山野の名前)さん、どうしたんですか、こんなところに呼び出して」 「うん、少し話しがあってな」 「最近、お身体の調子があまり良くない様子なのに、わざわざ外でなくてもお話なら家でいつでもできるではないですか」 この商売の難しいのはここだ。別々に暮らしている恋人同士ならいいのだが、同棲している相手をわざわざ呼び出すのは少し違和感がある。 ただ、相手の家に乗り込むことも憚られるので、こういう場面を作り出している。 「うむ・・・」山野も少し詰まってしまった。 フミがアイスのロイヤルミルクティを注文し、それが届くまで沈黙が流れた。 飲み物が届き、スタッフが離れたのを切っ掛けにして、山野が切り出した。 「フミ、別れてくれないか」 フミは瞬間『え?』という表情をしたが、取り乱すこと無く、アイスロイヤルミルクティを一口飲んだ。そして静かに言った。 「解りました」 「え? 理由を訊かないのか?」 「(おっしゃ)りたいのですか? 仰りたいのならば聞きますが、私は理由などどうでも結構です。宗佑さんが思うようにされれば結構です」 梓は出番が来なくて、戸惑っている。 「いや、どうしても話したいという訳では無いが・・・、で、慰謝料だが・・・」 「慰謝料? 要りません」 「それは困る」山野が咄嗟に言った。 「困る? 何故です」フミが怪訝な表情で言った。 「いや~・・・・・」戸惑いながら言葉を探し(ようや)く言った。「どうして要らないんだ?」 「私は宗佑さんとお付き合いして、とても豊かな時間をいただきました。感謝しています。それ以上なにも要りません。別れるのを承知したのも、宗佑さんが望むことを叶えたいと思っただけです」 山野は困り切って、中村の方を見た。 中村が山野のテーブルに近づきながら言った。 「山野さん、明らかに失敗ですね。諦めましょう」 「そうか・・・、そうだな」山野も観念して言った。 「こうなれば、本当の事を言っても良いのでは無いですか?」 「うむ・・・」それから、余命が半年程度である事と生きている間に生活費を渡しておきたい事など、順を追って話した。 「宗佑さん、宗佑さんのお気持ちはありがたいですが・・・」フミは優しくそこまで言ったあとで、声を緊張させて(つまり少し怒って)続けた。「私達の間柄はその程度のものだったのですか?」 「どちらかの気持ちが離れたら、即、別れよう。しかし、お互いの気持ちが通じているなら、どんなにボロボロになっても一緒に居よう、そう言ってくれたではないですか」 「ああ、覚えているよ」 「私が最後まで宗佑さんの面倒を看ます。誰にもそれをさせません」 「そうか・・・、面倒を掛ける」 「面倒を掛ける? あなたの面倒を看るのは私の幸せです。二度と言わないで下さい」 ふたりの気持は一切の打算が無く本物だった。 ・・・・・ 数日後、山野は恋人屋本舗の事務所にいた。 中村は、その場で調停を申し出れば、間違いなく離婚できることを山野に伝えてた。 「あんたは、それが判っていて、あの茶番に付き合ったのか?」 「はい、すみません」 「あの茶番の結末も予想していたな」 「ええ、思った通りでした」 「何故だ? 失敗するのが解っていて何故そうした?」 「お互いに本当の気持ちが解った、いや、確認した方が良いかと思いまして」 「なるほどな。あんたと賃貸契約するときに見込んだ通りだ、良い仕事をする。商売は下手だが」 それから、中村は山野の依頼を受け離婚調停の手続きを進めた ・そもそもの有責配偶者は奥さんであること。 ・別居が10年以上にも及んでいること。 ・そして離婚しても奥さん側の生活が直ぐに破綻するわけでは無い(財産を分与するので)こと 以上から、調停は通常よりも短期間で済み、3ヵ月後に再度、山野は恋人屋本舗を訪れた。 病状は明らかに進行しており、歩くのも杖の助けを借りていた。しかし、山野に悲壮感は一切無かった。 「どうせ、昼飯、まだなんだろう」そう言って、山野は宝家(よみせ通りにある大阪寿司の店)で買ってきた押し寿司を差し出した。 「ありがとうございます。ここの寿司、大好きなんです」 「それは良かった。私も大好きでな。ただ、もうあまり食べることもできなくなってきた」 中村が何と応えて良いのか、考えあぐねていると山野が続けた。 「中村さん、今回は色々と世話になった」 「ここの建物をフミさんに、本郷のご自宅を奥様に、でよろしいんですね」 「ああ、そうしてくれ。これは今回の報酬だ」 そう言って銀行の帯がついた100万円の束を差し出した。 「いや、こんなには・・・」 「いいから、取っておきなさい。それと・・・」 そう言ってから100万円の束を6個(600万円)差し出した。 「これは?」 「特別報酬だ。但し、使い道限定だが」 「使い道限定?」 「私が死んで、フミがここの建物のオーナーになったら、お前さん(恋人屋本舗)の家賃に使ってくれ。あんたの商売では当面、家賃に苦労するだろう。2年分ある。フミが困らないようにこれできちんと家賃を払ってやってくれ。これと他の店子からの家賃があれば、フミも生活には困らないだろう」 「2年間分も家賃をいただけるのですか?」 「その代わり、何かとフミの力になってやってくれないか」 山野は今回の対応で、中村は信用できると判断したようだ。 中村は、山野が自分が死んだ後、フミの事を頼むと言っているのだと理解した。 「判りました。承ります」 「よろしく頼む」 それが山野との最後の会話になった。2ヶ月後、山野は亡くなった。 ・・・・・・ 5年後の谷中、恋人屋本舗。 「じゃまするよ」フミが入って来た。 「あっ、フミさん、いらっしゃい」山野のおかげで2年間は家賃を払えたが、5年後の今は、また家賃が時々滞っている。 「おや、拓也はいないのかい?」 「今日はある案件の調査に出掛けています」 「相変わらず、依頼者がいないねぇ」 「家賃ですよね。もう少し待って頂けませんか」 「もう少し待ったら、家賃を払ってもらえるのかな?」 中村は可笑しくなった。5年前に山野と交わした言葉と全く同じだ。 「出かけたついでに、宝家の押し寿司買ってきた。どうせ昼食まだだろう。一緒に食べようと思ってね」 シックなフミの出で立ちで思いだした。今日は山野の命日だ。おそらく墓参りに行っていたのだろう。 「ありがとうございます。助かります。今、お茶を入れますね」 ソファに座り向かい合って宝家の寿司を二人食べた。 窓からそよぐ風が気持ち良かった。 言葉には出さなかったが、二人ともそれぞれに山野のことを思いだしていた。 第17話完 f5d02d39-e3e0-477e-bfb1-a33c067339e8ホテル椿山荘の「ル・シャルダン」
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