ウレシサメーター

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ウレシサメーター

 嬉しいことって続かないんだなあ。  私はこれまで、そんな風に考えていた。  それは、私がよく体調を崩すことに関係があったのかもしれない。  たとえば、文化祭や遠足や、何かイベントに参加したとする。  当日はすごく楽しんで、嬉しい気持ちでいっぱいになるんだけれど、翌日になると、疲れのせいで具合が悪くなって、何日か寝込んじゃうんだ。  嬉しいことの次は、辛いことがある。上手くバランスが取れてるものなんだから、仕方がない……そう思って、あきらめようとしてた。  だけど最近、その考えかたが、ちょっと変わってきてるんだ。  放課後の図書館は静かだった。  もうすぐテストがあるからか、自習コーナーにいる人たちはもれなく勉強をしていて、話し声はほとんど聞こえない。私と、向かいに座っている野本さんも、同じくテスト勉強中だ。  それにしても、静かすぎると逆に集中力がなくなっちゃうな。ぐるりと囲む本たちに、じっと見られているような気がしてきちゃう。  さらには、「早くその数式解いちゃったら?」なんて言われていそうで、ちょっぴり落ち着かない。  野本さんのように、順調にシャープペンシルを走らせたいけれど、私の右手はさっきから止まってばかりだった。 「野本さん、さっき教えてもらったばかりなのにごめんね。ここがわからないんだけど……」  このまま問題集とにらめっこを続けていても、時間を無駄にするばっかりだ。そう思って野本さんに質問してみた。 「ああ、これね。問六と同じよ。ここに公式を当てはめて……」  言いながらすらすらと問題を解き、ノートを見せてくれる。すごい、魔法みたいだ。あまりにも見事すぎて、やっぱりよくわからない。  野本さんは、私が理解していないことに気づいたみたいだった。はっきりと「呆れたわね」という顔になっちゃったから。 「今の段階でこれじゃ、テストまでに間に合うかしら」  スケジュール帳を手にして、野本さんは考え込んでしまった。私のことなのに真剣に悩んでくれるのが嬉しくて、顔がにやけそうになってしまう。  ううん、笑ってる場合じゃないんだった。今はテストのこと考えなきゃ。 「原田さんは体のこともあるし、夜更かしするわけにもいかないものね」 「あ、それなら大丈夫! テストがあったって、毎日九時には寝てるもん」  心配そうに言う野本さんに、私は胸を張って答えた。  早寝だけは自信があるんだよね。勉強面ではひとつも自信が持てないのが、悲しいところだ。 「あんまり得意げに言うことじゃない気がするんだけど……。でもちゃんと健康管理をしてるのね。安心したわ」 「自然と眠くなっちゃうだけなんだけどね。冬は特に眠くて」  冬は、ほかの季節よりも疲れやすいみたいなんだよね。本当はもっと遅くまで起きていたいんだけどな。  寝る時間が長くなると、当然勉強時間も少なくなる。  それなら、なおさら今、頑張るしかない。蒼くんだってリオだって、部活で忙しい中、ちゃんと勉強してるんだものね。  私はくじけかけていた心を奮い立たせ、もう一度数学の問題と格闘することにした。とりあえず書いて覚えようと、ノートに数式を写していく。  野本さんもしばらく自分の勉強を進めていたけれど、何かを思いついたように、ふいに顔を上げた。 「じゃあ明日、原田さんがつまずいているところの要点をまとめてくる。それを暗記したら、ちょっとは楽になるかもしれないわ」 「えっ、本当? すごく嬉しいけど、野本さんだって自分の勉強があるのに」  さすがに、そこまで甘えるわけにはいかないんじゃないかな。 「いいのよ、復習になるもの。……それに、家庭科のお礼もしたかったし」  悩む私に、野本さんはそんな風に言ってくれた。  恥ずかしそうにうつむく野本さんを見て、あのときのことか、と思い出す。家庭科の授業でマフラーを編んだときのことだ。野本さんに教えながら、一緒に編んだっけ。 「今まで親や友達、先生にも編み方を教わったけど、初歩から理解できなくて、みんなさじを投げたわ……原田さんだけよ。こんな私に、親切に教えてくれたのは」  野本さんの感謝の眼差しに、今度は私のほうが気恥ずかしくなってしまった。  確かに、教えるのに苦労したかも。自分では何気なくやってることでも、初めて編む人にとっては難しい作業みたいだもんね。  けれど、最初は戸惑っていた野本さんも、一度コツをつかんだら、すいすい編めるようになっていた。マフラーが完成したときは、二人で抱き合ってきゃーきゃー騒いじゃったなあ。  そういうことなら、野本さんの厚意をありがたく受け取ろう。 「じゃあ、よろしくお願いします」と頭を下げると、 「まかせて」  野本さんは、ふわりと微笑んだ。  二人でマフラーを作った時間を、野本さんが大切に思ってくれたことが嬉しい。  私の心にある、嬉しい気持ちを示したメーターが、ぐんぐん伸びる。 「その様子だと、テスト勉強、はかどったみたいだな」  隣を歩いている蒼くんが、私の顔をのぞき込んできた。  蒼くんとは、図書館を出たときに会ったんだ。  彼は「偶然部活が終わったから」と言っていたけれど、もしかすると私を待ってくれていたのかも。会ったとき、ものすごく寒そうだったもの。  気のせいかもしれないけれど、待っててくれたんだと思うと、嬉しさメーターがまた上昇した気がする。 「うん! 野本さん、数学が得意でね、何を訊いてもすぐ答えてくれるんだよ」  うきうきしている私の横で、蒼くんはちょっぴり意地悪そうな顔になった。 「そうか、良かったな。図書室に行く前はすごく悲愴な顔してたから、どうなるかと思った」 「ひ、悲愴って。私そんな顔してた?」 「してたしてた」 「うう……」  蒼くんがにやにやして私を見ていることがなんだか悔しくて、彼の腕にパンチを繰り出してみた。でも蒼くんはまったく動じない。「何か触れたかな?」くらいの反応で、これがまた憎たらしい。  私はしばらく、蒼くんの腕にぺしぺしと効かないパンチを浴びせ続けた。振り返った蒼くんが、必死な私の様子を見て吹き出すまで。 「テストが終わったら、海、撮りに行こうと思ってるんだ」  パンチの応酬がひと段落ついたころ、蒼くんが口を開いた。 「へえ、海かあ。今は寒いだろうな」 「ああ、だからさすがに、真純を連れてけないけど」  そう言った蒼くんの顔は、ちょっとすまなそうだ。 「ううん、気にしないで」  私は首を振って見せた。寒い中、私が海風に吹かれていたらどうなるか、悲しいほど予想できちゃうもんね。きっとまた、熱を出しちゃうだろう。  わかってはいるけれど、一緒に行きたかったかも。ちょっとがっかり。さっきまで伸び続けていたメーターが、がくりと下がった気がした。  だけど、下がったままじゃない。「嬉しい」の次が「辛い」なんて決めつけてたのは、ちょっと前の私だ。  今の私はひと味違う。工夫しだいで気持ちが変わることを、知っているんだもの。  たとえば、そうだなあ。蒼くんが海に行く日までにマフラーを編んで、プレゼントする、なんてどうかな。  蒼くんの話を聞いていると、海に行くのは日曜日らしい。テストが終わるのが金曜日。それからすぐに編み始めたら、余裕を持って仕上げられそうだ。  マフラーなら編み慣れているしね。気分転換にちょうどいい。  手編みのマフラーなんて使ってもらえるのかなあ、という不安は置いておいて、とりあえず編んでみよう。そうしたら、海に行けなくても、蒼くんと同じように日曜日を心待ちにできそうだもんね。 「何だ、急ににやけて。また変なこと考えてるだろ」  蒼くんが私の頬をつついた。うう、どうして蒼くんには私の気持ちの変化がわかっちゃうんだろう。 「どうやったら蒼くんをやっつけられるか、考えてたんだもん」 「……いい度胸だな」  私の頬をさらにつつこうとする蒼くん。 「蒼くんだって、にやけてるじゃない」  彼の魔の手から逃れながら、私も反撃をする。 「真純が変だからつられたんだ」 「ほら、いつも人のせいにするー」  なんて、どうでもいいことを言い合いつつ、ゆっくりと帰り道を歩く。  ううん、どうでもよくはないかな。だって私の嬉しさが、またひと目盛り増えたから。  テストは、私にしてはまあまあの出来だった。  一番苦手な数学が、思いのほか調子が良かった。そのおかげで、他の教科もリラックスして受けることができたんだ。  私は協力してくれた野本さんにお礼を言い、ともにテスト終了のお祝いをした。  リオや祥子ちゃん、布野さんも一緒にちょっぴり寄り道をして、たこ焼きを食べた。おいしかったなあ。  家に帰るとすぐ、マフラーの作成開始だ。  蒼くんにあげるなら、色はやっぱり青だろうということで、前もって濃い青の毛糸を用意していたんだ。飾りのないシンプルなものにしよう。  いつもの気分転換ではなく、プレゼント用だと思うと、ちょっと緊張しちゃうな。目をとばさないようにしなければと、慎重に編み針を動かす。  緊張感に慣れてくると、自然と鼻歌が出てきた。お母さんに入れてもらったココアを飲みながら、私はリズムに乗って編み続けた。  日曜日の朝、海へ向かうバスの停留所に向かうと、蒼くんはすでに到着していた。  驚いた顔の蒼くんに、私は見送りに来たことを告げた。そして持ってきていた缶コーヒーを手渡し、ベンチに並んで座る。自分のコーヒーを一口飲んでから、私はバッグの中に手を入れた。 「あのね、これ、持ってきたんだけど」  ちょっとだけ見えるように、端っこだけ出してみる。もっと堂々と渡そうと思っていたのに、いざ本番となると、なんだか勇気が出ない。  蒼くんは、出し惜しみしている私の手ごと引っ張り、マフラーを取り上げてしまった。そのまま両手で広げる。  うわあ、あんまりじっくり見られると、いろいろアラが見つかっちゃいそうで、恥ずかしい。 「これ、真純が編んだのか」 「模様とか入れてないから、二日でできちゃったんだけどね」 「……二日?」  信じられないという表情で、蒼くんがつぶやいた。 「なにをどうしたら、毛糸が二日でこんなになるんだ」なんて首を傾げている。 「そのう、蒼くんに使ってほしいなと思って編んだんだ、けど……でも、もし手編みが嫌だったら……」  持って帰るから、と言いかけたけれど、結局口には出せなかった。その前に、蒼くんは素早く、マフラーを首に巻きつけてしまったから。 「暖かいな」 「うわあ」  思わず声を上げてしまった。私の作ったマフラー、本当に巻いてくれてる! 「なんでそんなに驚くんだ。おれの為に編んでくれたんじゃないのか」 「ちゃんと蒼くんの為だよ。でも、初めてだからびっくりして」 「なにが」 「す、好きな人に自分の編んだものをあげることが」 「…………そうか」  蒼くんは指先でマフラーをいじり、黙り込んでしまった。  しまった、恥ずかしいことを言ってしまった。顔のほてりが冷めないまま、靴の先を見つめる。 「ありがとう、真純」  隣からやわらかい声が降ってきて、私は顔を上げる。  目の前には、声と同じくらいやわらかな、蒼くんの笑顔があった。  つられて笑っていると、蒼くんは突然、私の前髪に触れた。 「蒼くん?」 「あ、悪い」無意識だったらしく、彼はぱっと手を離す。そして、 「もっと、よく見たかったから。笑ってるとこ」  そう言ってから、蒼くんはなにかをごまかすみたいに、マフラーを鼻の上まで引き上げた。  ごまかしているのはきっと、恥ずかしさに違いない。私だって今、ものすごく顔が熱いもの。  バスが来るまでの数分間、私たちは何度も「暖かい」と言い合っていた。  傍から見ればおかしな光景だろうな。風が吹きつけ、気温が低いこの場所が、暖かいはずなんてない。  けれど、本当にあたたかい。蒼くんの笑顔や言葉があたたかくて、嬉しい。  毎日、毎日、新しい嬉しさがいっぱい増えていく。抱えきれなくて困るくらい。  そしてそのたび、私の嬉しさメーターは、最高記録を更新し続けていくんだ。
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