金曜日まで待てない

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尚樹(なおき)は屋上のフェンスを乗り越え、今まさにあちら側に足を踏み入れる寸前だった。 「飛ぶの?」 「え……」 目の前にはビル郡が立ち並ぶ雑多な景色と抜けるように青い空が広がっていた。が、その景色を塞ぐように顔がぬっと現れ尚樹は肝を潰した。 「飛びに来たんでしょ」 「え?……うぇっ?」 涼しげな表情で尚樹を見据えているのはおそらくは男の子。中性的な顔をしているが、声のトーンからして男子だろう。 予想だにしなかった展開に、死を覚悟していた尚樹の固い心は一瞬ひしゃげた。 「だっておじさんプロポーズ失敗して借金しか残ってないみたいだし」 「……おじさんて。しかもなんでそれを」 給料の三ヶ月分。枠ギリギリでなんとかカードで支払った。指輪を差し出した時の彼女の困惑した顔が鮮やかに甦り、途端に空しさが蒙古襲来並みにやってくる。そんな不憫極まりない尚樹に少年は畳み掛けた。 「通帳残高三桁」 「うっ」 「財布の中身は小銭も合わせて千円ちょいてとこかなぁ」 いたたまれずに尚樹は叫んだ。 「頼む死なせてくれ! お前みたいな女子ウケ良さげな顔の奴に俺の苦しみの何がわかるってんだよチキショー!」 大人げなく叫ぶ尚樹のツバを避けながら、少年は平然とこう返した。 「苦しみはわかんないけど、モテなくて貧乏なのはすっごいわかるよ? ほら元気だして、ファイトっ!」 明るく応援され、尚樹の視界は色彩をなくした。こいつが何者かなんてこの際どうでもいい。今すぐこの虚無感と絶望と、よく見ると苛立つほどに整った顔立ちから解放されたかった。 「はいはい。じゃ、飛びますね」 「わー、坂上二郎みたい!」 「誰だよそれ」 「知らないの? 欽ちゃん知らないの?」 宙にぷかぷか浮いている少年は恐らく過去にここから飛んだ人間。地縛霊か浮遊霊か……とにかくそんな類いのものだろう。それにしても欽ちゃんて、誰だっけ? 「さくさくさく」 指が跳ねる。尚樹は検索魔であった。 「何やってんの?」 「……欽ちゃん。昭和の爆笑王。コント55号、相方は坂上二郎。あー、なんか知ってるかも」 フェンスの上で強風に吹き上げられながら尚樹はウィキペディアを読み上げた。 「ふぅ、すっきりした。これで心置きなく飛べる。俺、フライアウェイ」 「何それ! 神ツール? 僕のと全然違う!」 少年は頬を紅潮させ尚樹のスマホを覗き込んだ。好奇に満ちた眼差しは誰から見ても間違いなく眩しい。数十年前に自ら命を絶った子なのだということが、尚樹にはとても信じられなかった。 「少年は昭和生まれなんだな。なのにスマホ持ってんの? 君オバケだよね?」 単刀直入にそう言うと、少年はにっこりと微笑んだ。 「オバケだけど持ってるよ、ぽいやつ。死んだとき天使が現れて……天に召されるんだと思ったのにこれ置いてっただけだった。おじさんはもう持ってるからもらえないかもね」 飄々と話しながらそれらしき物を少年はポケットの中から取り出した。 「なぁ、その話詳しく聞きたい」 「ならこっちくれば?」 「いやいや生きてるうちに聞きたい」 「じゃ降りなよとりあえず」 「えっ、うーん……わかった」 ガッシャンガッシャン音を立てて、命を落とすために登ったフェンスを降りてしまった。 「ぶっちゃけもらえない方がいいと思う」 「なんで?」 金網越しの逢瀬のように、尚樹と美少年は向き合った。彼は天使にもらったというスマホらしき物の画面を尚樹に向けてこう言った。 「これは受信専用で」 「うんうん」 「生きてればこういういいことがありましたよ、ってお知らせがくんの」 「へー」 「死んだ翌日に、本当なら今日は大好きだった子からラブレターをもらえたはずの日でした、ってのが来た」 「マジか」 「おめでとう! 童貞喪失の日です。生きてれば! とか」 「うげー!」 「年上お姉さんにあんなことやこんなことを教えてもらえます。あっ、生きてればですがね! とか」 「……なんていうか、あれだな」 なかなかの地獄だなと尚樹はシンプルにげっそりした。 「それが毎日続いて、初孫がうまれたって報告が昨日来たの」 「生きてれば、だろ?」 「そうそう」 なんて無邪気に拷問を語るんだと思いながら、同時に尚樹は疑い始めた。これは自殺志願者を思い止まらせるための、天使プログラムではないかと。彼はオバケを装った天使なのだ。確かにそれに相応しい美しさと無邪気さ、美貌までもを兼ね備えている。
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