旅の目的は、きっと、人生の目的

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 姫は、淡々と、石を砕いている。  200年前の江戸時代、糸魚川藩は財政難であった。  天災後の人災。直後、再び、天災が起こり、次いで、再度の人災が重なって繰り返され、藩と民は、困窮へと追い込まれていった。  そのような状況においても、姫は、翡翠石を砕き続けていた。  周囲の者は、姫が窮民と窮藩の御為、財政難を解決する為に、翡翠石を集め続け、砕いている、と思い込んでいたが、姫の想いは幾分、いや、相当違っていた。  姫にとって、藩と民、民と藩の困難が、気になると言えば気になるが、切羽詰まって難しく考えなくてもよい立場に生まれ、育ってきた。  難解決にと、やっている訳ではない。やりたいからやっている、ただそれだけだ。  が、本心は……それだけではない。  姫は幼い頃、一人の旅商人と出逢った。  東西を繋ぐ街道と、南北を繋ぐ街道。二つの道が交差し、交差の中心にある糸魚川藩は、藩が出来る遥か昔から、交通の要所、軍事の要、宿場町として成り立っており、人々の往来が多い地域であった。 交流で栄えた場所が、やがて藩になったのである。  糸魚川藩では、財政難解決の糸口を見出そうと、行商人や旅人からも多様な意見を求めていた。 こうして比較的自由な采配が振るえるのも、立地上、糸魚川は幕府の本拠地である江戸との距離が離れているお陰で、諸藩を厳しく取り締まりたい幕府の監視や法や思惑、しきたりが及びにくい土地柄であり、大っぴらにゃ出来ないが、糸魚川藩独自の裁量で物事を、こっそりと進めたり決められる節もあった。  だが、逆を言うと、民も民各々の裁量で藩や幕府に抵抗可能な自由度が在る、と言い換える事も出来る。先の一揆も、止むに止まれない事情があるとはいえ、民側の方策の一つだったのである。それ程までに、糸魚川藩は切迫していた。  姫が出逢った旅商人は、他の行商人達と明らかに雰囲気も毛色も違った。  売り買いに見境がなくなってしまう商売人というよりは、旅することや、数々の出会いと発見に興味を持つ旅人に近い。旅人と行商人の中間のような印象だった。  藩内から、ほとんど外へ出たことがない姫にとって、これまでに行商人達が持ち込んで来た品々や他藩他国の話はどれも新鮮だったが、その旅商人は、姫に石の使い方と、絵の描き方を教えてくれたので、記憶に色濃く残り続けている。  旅商人は「廻りの者からは、絵具屋だとか画材屋だとか言われておりますが、正しくは、岩絵具屋、といったところでしょうか」と笑った。 「いわえのぐ?」と訊く姫に対して、幼子にも分かりやすいよう簡潔丁寧に説明してくれた。  旅商人は元々、絵を描いていたが、絵の表現や手法や画法を、あれこれ試しているうちに、迷い、模索する中で、様々な種類の絵具を目にし、日々触れる中、実は自分は、絵よりも絵具の方が好きなのではないか? 特に岩絵具に心惹かれているのではないか? と気付いたのだと言う。  色々な色が濃淡ごとに規則正しく、順序だって並んでいる光景に、魅力と興奮を感じる、とも述べ。旅商人は、生まれて初めて絵具屋に入った時の驚きを語ってくれた。店内の棚という棚に、色とりどり、濃淡順に揃えられた絵具の瓶が、ずらり、きっちりと並べられており、その陳列棚が目に飛び込んで来た時の衝撃を。  店へ入った瞬間、魅了され、入り口で立ち尽くしてしまった事も、自分が立ち尽くしていた事にすら気付けなかった事も。  絵を初めて眼にしたり、描いたりした際の感動を上回っていた事も。  そう、懐かし気に話しながら、旅の過程で集めた希少な鉱石や岩絵具を取り出し、見せてくれた。  多種多様な色彩と大小の石が、可愛らしいガラスの小瓶に詰められ、丁寧に仕切られた木箱の中に標本のように収められている。 小さな陳列箱に、びっしりと順序立って整列していた。元絵描きの感性と規則にのっとって、美しく。  夜空輝の瑠璃  月長  犬牙  ざくろ  閃光蛍  絹雲の源  蜜星  黒煙  十字斧  銀綺羅  苦土蛭  幻魔火鳥    ヒカリゴケ  雪の頂  黒耀  鬼火不知火 黝輝  あられ  魔眼雷管  幻影水晶  煙水晶  山入り水晶  鰐水晶  松茸水晶    虹水晶  油水晶  赤鉄  藍宝  紅玉髄  瑪瑙    藍銅  金剛  蒼玉  孔雀  虎目  猫乃目    魚埜眼  賢者  蜂蜜  金銀雲  葡萄玉の滴  透明石膏    逆さ淡富士  異極方鉱  乱れ桃  鱗  直閃天球  岩絵具は、石を細かく砕き、磨り、潰し、砂や粉のようにした絵具だと言った。 「お石で、絵が書けるの?」 幼い姫は、石を使って絵を書くという奇想天外な話を知って興奮したし、宝石や玉や水晶をも砕き、割って壊してしまうという、やってはいけない事を平然とやってのける熱風のようなものを浴び、興奮を覚えた。  姫が、小瓶を手に取り、陽の光にあて、きらきらさせていると、旅商人は言った。 「姫様。お石の中には、薬として用いる石もあるといいます。伝え聞いたところによると、雷をびかっと発する石や、毒を発する石もあるとか……」  姫は、ぎょっとして目を見開き、体硬直。  ゆっくり、そっと、小瓶を元へ戻すと、慌てて懐から翡翠色の巾着袋を取り出し、中に入っていた翡翠石で必死に手を洗った。  その様子に興味を持った旅商人が姫に理由を訊くと。  姫は、嫌な事があったり、体に痛い所があると翡翠の石を触ったり、かざしたりすると、具合が良くなる気がするのだと言う。  姫は「ヒスイのお石も、絵具になれる?」  と尋ねながら、巾着袋から御自慢の翡翠石をいくつか取り出し、見せた。 旅商人は、「これほど美しい石は見たことがありません。さぞ綺麗な岩絵具に成ることでしょう」と驚いてくれたし、褒めてくれた。  ご満悦になった姫は、早速、城の者達を得意気に引き連れ、旅商人と供に、海、川、山へと翡翠石を探す旅に出た。  半日近く――  頑張って探したものの、とうとう、翡翠石は見つからなかった。  陽も暮れかけ、供の者が、「そろそろ城へ戻りましょう」などと言い出したので、姫は本当は見つかるのに、と悔しさのあまり、旅商人を前にして、泣いてしまった。  旅商人が藩に滞在している間も、姫は旅商人に懐き。旅商人も姫に懐いた。  姫は何度も旅商人から話を聴き。岩絵具を使った絵の描き方も教わった。  旅商人曰く、石の種と薬剤調合の技をもってすれば、草木や花と同じように、石も育てられるのだという。姫は早速、植木鉢に土を敷き詰め、翡翠石を植えて、毎日、水をやった。  別れの刻。姫は大切にしていた翡翠石を旅商人に手渡しながら、姫の瞳には、みるみると涙が浮かんで、溢れていった。  もっと一緒に遊ぶと言って、ごねた。  旅商人は「これまでの御礼と御返しに……」と言って、遠国で創られた更紗眼鏡という名の筒を取り出し、姫に手渡し、中を覗くよう促した。  姫は、筒の穴から中を覗き込み、「わー きらきらしてるー」 と、合わせ鏡に夢中になって、筒をくるくる回し、映り動き、切り替わってゆく色模様を観て、はしゃいだ。  暫くして、筒穴から目を離し、視線を旅商人へと戻すと、その場には、すでに旅商人の姿は無かった。  やられた……  幼心にそう感じたが、あまりにも颯爽としていて、呆気にとられ、泣く暇も、跡を追う気力も失っていた。  あれから何年か経ち――  姫は想う。近しく遠い記憶。  あの日以来、なんとなく、心のようなものが閉じてしまい、あまり人を信じられなくなったりもしたが、生きて再会できるのならば、また会いたいな、とも想う。  歳月を重ねた今なら、再び旅商人と供に出掛け、今度こそ翡翠石を見付け出せるし、訊きたい事も山ほど出来た。  翡翠石を叩き、割り、砕き、磨り、潰す。時には粗く、時には細かく。  石の個性に合わせて。  粗いと、その石本来の色で色濃く、細かいと色が薄くなる。  水に沈めて粗さを振り分ける。  絵に必要だから岩絵具を創っているのか、鬱憤を発散したいが為に叩き割っているだけなのか、理由は自分でも解らない。自分が自分の心の模様や流れや動きを全て理解している訳ではない。  いや、むしろ、心の中なんて、絵皿の表面に浮かぶ上澄みのようなものなのだろう。特に何も考えず、誰からもうるさい事を言われず、指示されず、打ち込める行為が好きだ。探し、見付け、集め、砕く、分ける。  石たちをどのように絵具にしてゆくか、石の案配を観ながら思案するのも、絵を描くのも、気楽で楽しい道のりだ。  目的決めず、他者からも勝手に決められず、旅しているようで心が落ちつく。  姫が翡翠石を砕き、描き始めた当初。城の者達は、大切な石をわざわざ砕いてまで絵にするなんて勿体ない、意味が無い、正気の沙汰とは思えない、狂気めいた、気が触れた、などと騒いだが。  姫が翡翠石を用いて絵を描いている事が城内から城外、やがて藩内から藩外へと伝え広まり、翡翠絵の評価と姫の評価が高まり始めると、姫を批判していた者達は、急に言った事が反転し、姫を褒め出した。  中には「初めっから、風情があると感じ入っておりました」などと、冗談か本気か分からない事を真顔で断言する者も居た。  掌を返す、とはこの事か…… 姫は身に沁みて学んだ。  周囲の者達を放っておくと。やれ、襖や屏風に翡翠石で絵を描けば高値で売れる、だとか、どうにか転写の技を得て大量に刷れないものか、だとか、手の空いてる者達を集め大勢で模写しよう、だとか、翡翠の岩絵具は高値で取引される、だとか、江戸や大坂や京で売ろう、だとか、財政難の御救い、だとか。それぞれに好き勝手な事を言い出していて、各自の持論で盛り上がっていた。  皆、嬉しそうだし、楽しそうだ。  そういえば。  姫が石の種を植え育てている事を、周囲は笑いの種にし、誰も信じていなかったのに、一儲けの企てか、翡翠石を植え始める者も出る始末であった。  本当に儲かる話や、儲けの神髄いうものは、人には教えないものである、此度も同様であった。  翡翠石を育てる事は隠しつつ、我先に植木鉢を求める者が増え出すと、売り手の店側は、客の真の目的を知らないまま、訳も理由も分からずに、早合点の憶測で、売れ筋ならば、今の内に植木鉢を他所からでも買い占められるだけ買い占めておいて、後から高値で売り付けようと算段する輩も出るのは必然であった。  みるみるうちに、藩内から植木鉢が消えていった。  自分の心の具合や動きですら、よく分からないのに。  他者の、しかも、ころころと移り変わる心模様なぞ、はなから把握できないし、期待もできない、理解しようとすることに、さほど意味も無いと気付き、好き勝手にやろう、と、姫は岩絵具創りと絵に、のめり込んだ。 姫は独学し、藩の書庫には絵具や絵や石や岩に関する書物も増えた。  旅商人に教えてもらうまで、石や貝殻を砕いて創られる絵具が在るなんて、想像もしていなかったし。  そもそも、絵は人が描いているのだという事も考えていなかった。絵は誰も知らない太古の昔から、ずっとどこかに在り続け、ある時、人が勝手に持ち出して来た、という程度にしか認識していなかった。  岩絵具は砂状、粉状なので、そのままでは筆や紙からこぼれ落ちてしまう。絵具として使うには、まず、魚の皮や獣の皮などを煮出して、煮皮を創り、煮皮と岩絵具を混ぜ、筆に乗せ、紙に接着させるのである。皮の他にも腱や筋、内臓、脂や卵、木のヤニなども吸着画材として使える。  城内、膳所の台所頭に命じれば、簡単に煮皮の材料は手に入った。  翡翠石の色は、白、緑、紫、青、黒、古い石だと茶、などの種類があり。  姫は、これらの色の翡翠石を基にしつつ、海岸で拾い集めた貝殻や、目の前の海に遠く浮かぶ佐渡島の金山銀山から穫れる金と銀を用いて絵を描いたりもした。  桜を翡翠で描いた。  春の訪れを知らせてくれる温かい風も。  散って宙に舞う桜の花びらも。  水面に浮かんだ桜の花束も。  草木をついばみ歌う鳥達も。  花に寄り道してゆく蝶や蜂も。 沢や滝の流れも。  夏の海の波や川のきらめきも。  水面から飛び出した魚の鱗がきらり反射する瞬間も。  燃え盛る陽も。  熱い砂浜の岩の揺らめきも。  空と入道雲も。  山々の緑も。  陽射しと木漏れ陽も。  夜露滴る葉も。  重い雨雲も。  急に降り出した雨の太い線も。  花火の輝きも。  金魚鉢に入れた翡翠石と二匹の赤い金魚も。  夏の終わりも。  燃えたぎる紅葉も。  秋夜の虫の音も。  高く薄く流れゆく雲も。  ひんやりとし始めた空気も。  泣き出しそうに潤んだ月も。  降り積もった雪の峰も。  朝日に輝くつららも。  しん、と澄み渡り透明になった世界を。  翡翠で描いた。  石は石のまま、そこに在るのがありがたい。  あるがままで、変わらない。 人の心は変わってしまう。  いくら自分が、誰かに対して頑張った所で、報われない事もある、相手だけを責めたい時もある。  だが、石は石のまま変わらない。  想うような色を創れなかったり、紙の相性に合わせきれず上手く紙に色が乗らなければ、それは石が悪いのではなく、調合や配合や画法が悪く、自分が悪い。  石を相手にしていると責任の所在が、はっきりしていて心地好い。  誰を責める立てることもなく、恨むこともない。  心おきなく、手早く、次へと進める。  姫は、旅商人から貰った更紗眼鏡の筒を開け、翡翠石や貝や金銀を入れた。  陽の光や、蝋燭の炎を受け、揺らめく色模様は、一見、乱雑なようでいて、合わせ鏡の規則性に沿って映った。 あの旅商人のように。   その頃― 翡翠絵の噂を聞いた旅商人は、姫から貰った翡翠石を手にし、眺め、 「翡翠の国の姫様は、元気だろうか」  と、想いを巡らせながら、足早に糸魚川を目指していた。  旅商人の想いは、翡翠色の風に乗り、姫へと向かって、吹いた。
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