番外編 I Feel Fine

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番外編 I Feel Fine

<side-CHIHARU>  「まさか自分がこんな不器用だとは……」  今僕の目の前には、いたるところが歪んいるガビガビの縫い目と、それに引っ張られて様々なところにシワが入りまくっている“マスクもどき”が転がっていた。  自分の手を恐る恐る見下ろすと、指先のあちらこちらにポツポツと赤い点が散らばり、ひどいところは刺し傷から溢れ出た血が擦れて、指先にこびり付いていた。  ──…………。  “擦れて”、だって⁉︎  僕は、マスクと言っていいかどうかもわからないそれを、慌てて裏返した。 「あ〜……。血がついちゃってる……」  僕はマスクもどきをダイニングテーブルの上に放り投げると、リビングダイニングのソファーに突っ伏した。  ── あんな血塗れのマスク、シノさんに使わせるわけにはいかない………。  ほぼ半日かけた仕事が、パーになったという訳だ。 「脱力感、ハンパない……」  僕は、自分の身体が鉛みたいにソファーの奥底へと沈み込んでいく錯覚に捕らわれながら、ボソボソと呟いた。  新型コロナの感染拡大が声高に叫ばれ出して、しばらく。  ついに非常事態宣言まで国から出されて、出版界も大騒ぎとなっている。  岡崎さんの話では、予定していた対面取材が全て飛んで、辛うじて電話を使った取材に切り替えているそうだが、写真撮影の目処が立たず、過去のストック写真で様々な雑誌の誌面を埋めて行かねばならず、デザイナー達の在宅パソコンに本社のサーバーをどう繋がせるのかが問題になっていると愚痴ていた。  この分だと、フリーランスのカメラマン……例えば小出さんのような人達はダイレクトに響いているだろう。小出さんは直近の仕事がなくなってもすぐに生活が困窮するような人じゃないが、若手のカメラマンやカメラマンの助手、スタイリストなどは仕事が続けられなくなる人も出てくるかもしれない。  その点でいえば、僕の仕事は、まだ影響が少ない。  元々小説家なんて引きこもり職の最たるものだし、連載小説が掲載されている雑誌が休刊にならない限り、仕事がなくなることはない。  また有難いことに、本屋に行けない人達が電子書籍や通販に流れているらしく、今年の初めに電子化された僕の単行本も予想以上の売れ行きらしい。 「今の私達は、あなた方売れっ子作家達に支えられている。本当に感謝してるわ」  今朝かかって来た岡崎さんからの電話で、彼女はそう言った。  僕の著作がいわゆる“おこもり需要”にのっかった形だが、その売り上げが岡崎さん達の生活を支えることになるんなら、少しは役立てたかなと思う。  シノさんと知り合って、そして共に人生を歩むようになって、僕は自然と人のことを気遣える人間になった。  それを思うとなんだかむず痒いが、悪くはないと思う。  そしてそのシノさんだが。  シノさんの仕事の方は、かなり大きな影響が出ているようだ。  まず、飲食店にダメージが出ると当然酒を卸しているシノさんの業態にもダイレクトに影響が出る。  まだ営業が続いている小売店への出荷は続いているようだが、元々加寿宮は、飲食店の卸業から始まっているので、どれだけ売上が減っているのか心配だ。  そして……。  柿谷酒造にも、僕はしばらく顔を出せずにいる。  電話では毎日、柿谷の誰かとは話しているが、僕に心配かけまいと気を使っているのか、それとも本当にそうなのかどちらかわからないが、皆「大丈夫」と言う。  なんでも、日本酒自体の出荷は減ってきているのだが、柿谷の正式な跡取りとなった娘婿の和人さんの新たなチャレンジでリキュール分野に取り組んでいたお陰で、消毒用アルコールの生産販売ができる免許と製造体制がたまたま整っていたようで、今はそちらの仕事も行なっているとのことだった。もうすぐ加寿宮のオンラインショップで売り出されるとのことだ。  だが、皆の顔が見えずに、声だけしか聞けないこの状況がもどかしい……。  許されるなら今すぐにでも飛んでいきたいが、今はじっと我慢の時だ。  東京は今市中感染のリスクが高い。食材がなくなれば、僕はスーパーや商店街に買い物に行く訳だから、そこで拾ってきてしまう可能性だって否定できない。  十二分に気をつけてはいるが、まかり間違って、柿谷にウイルスを持ち込んではならない………。  このウイルスの一番タチが悪い特徴と僕が思うところは、人と人の繋がりを裂く力が強い病気だということだ。  むろん、罹患すれば死の危険もあるのだから、究極的にはそれが一番恐ろしいのだが、僕的には、この病気が人の心の分断をたやすく生み出すことこそが非常に恐ろしいと感じている。  人に会うことができない。  会って話すことができない。  その一方で、強制的に閉じ込められた家族の中には、これまでに経験したことがないストレスのせいでコロナ離婚だ、DVだと新たな家族崩壊の問題も露呈してきている。  更に言うと、この病気で亡くなってしまうと、死に目にも会えないのだ。  過去、僕達が生きて来た中で、これほどまで物理的に人間の繋がりを分断させる病はなかった。  ネットでは、不幸にして病気に罹ってしまった人を責める言葉が飛び交い、口撃する言葉が声高に目立つ。  マイナスの感情が見えない空間……身の回りの空気中にすら蔓延しているようで、世界中が二重の病に侵されているようだ。  シノさんと知り合う前の、人間の良心が破滅する様をどこかで諦めていた自分だったら、「それみたことか」と鼻で笑っていただろう。  でも今の僕は違う。  だって僕は、シノさんという人を知ってしまったから……。  だから、もしシノさんがこの病気に罹ってしまったらどうしようと思う。  とてもとても恐ろしい妄想。  冷静でいなくては、とは思うが、そのことを想像するだけで心臓が震え上がる。  しかも、ただシノさんが罹るだけでなく、それがもし僕が原因でそんなことになったなら……。  今のところ、幸い、僕もシノさんもその気配はないが、シノさんは今日も会社に出社しているし、コロナ騒動の前からたまたま家にあった不織布マスクの備蓄は底をつき始めている。  小売店のマスクは、いまだ手に入りにくい。  しかしこのままマスクなしで、シノさんを家の外に出すわけにはいかない……。  そう思い至った僕は、マスクを手作りしてやろうと画策したわけだが、まさかこれほどまで自分に裁縫の才能がなかったとは………。  僕は、ダイニングテーブルの上のマスクの残骸とスマホを恨めしく睨みつけた。  検索したマスクの作り方はミシンで作っていたが、あいにくミシンは手に入らなかったんだ………。 「ああ! 神様!」  僕はそう叫びながら、ソファーからガバリと身体を起こした。  今までの僕なら、こんな格好悪い自分が許せないし、向いてないことはしないと諦めているところだが、今回ばかりは諦める訳にはいかない。  だって、シノさんの健康がかかっているんだ!  僕はブツブツと自分を叱咤する言葉を呟きながら、再びダイニングテーブルの上の布地と格闘を始めた………。       <side-SHINO>     「ただいま〜」  俺がそう声をかけても、いつも返ってくる「おかえりなさい」の声はなかった。  あれ?千春、買い物に出かけてるのかな?  新型コロナの影響で早めの帰宅となったから、千春の買い物の時間と重なったのかもしれない………と思いつつ、リビングに向かう廊下を歩いて行くと、一気に視界が開けたリビングダイニングの空間の中に、テーブルに噛り付いている千春の背中が見えた。  ── なんだ、いたのか。  何かに集中している様子の背中に手を触れようとして、俺はハッとした。  いけない。  手洗いとうがいをしないと。  今回のコロナ騒動でいい影響があったと思えることのひとつは、手洗いの習慣がついたことだ。  前は、帰る度に千春言われなきゃ手を洗うことを忘れることも多かったが、今は千春に言われなくても手洗いをするようになれたから、千春に余計な手間をかけさせることもなくなった。  それを先日妹に電話で報告したら、「お兄ちゃん、まるで子どもじゃない」と呆れられた。  今年幼稚園の年長さんになったという姪の茜は、妹が言わなくてもちゃんと手洗いをするそうだ………。  俺は、幼稚園園児にも劣っていたということか(汗)。  俺は、一旦洗面所に引き返し、手洗いとうがいを念入りに行った。それからリビングに戻ったのだが、千春は俺が帰ってきた時の姿勢のまま、一心不乱に何かを作っている。  まさか、俺が帰って来たことに気づいてないってことはないよな?  俺は千春の向かいの椅子に座り、テーブルの上に前屈みになって下から千春の顔を覗き込んだ。 「千春?」  俺がそう声をかけると、千春は絵に描いたような驚き方で、びくりと身体を震わせると、「うわ! シノさん⁉ いつ帰って来たの⁇」と叫んだ。 「いや……。ついさっき……」 「もうそんな時間?」  千春はそう呟いた後、次の瞬間、顔面が蒼白になった。 「ヤバイ! 晩御飯の準備、何にもしてない!」  千春は再びそう叫ぶと、手にしていたものを放り出して、キッチンに走って行った。  途中何かに躓いて転けそうになるほどに、慌てた様子だった。  ── なんだか千春……パニクってる?  冷蔵庫を覗いて、「ええと、一体何があるの……?」と焦った声で呟いている千春の姿と、今千春が放り出したものを見比べて、俺はそう思った。  ええとこれって……、ひょっとして手作りマスクかな?  それはまだゴムがついていなかったけど、この形からして、きっとマスクだ。  お世辞にも縫い目はキレイだとは言えなかったけど、一生懸命手縫いしてくれたことだけはわかる。  ダイニングテーブルの上の散らかりようを見ると、最低でも二回はマスクを作り直した形跡があった。  俺は心底、胸の奥がじんわりとして、作りかけのマスクを手にしたまま、ソファーに座った。  ああ、なんて可愛らしいマスクだろう。  表の布はブルーグレイのサラサラとした触り心地の洒落た布で、内側には目の詰まった白い布が縫い合わされている。  千春が俺のためを思って、夜ご飯作るの忘れるほど、頑張ってくれたんだと思うと……。 「ああ、何を作ったらいいか、全然思い浮かばない……!」  ふいに千春が、悲愴な声をあげる。 「本当に、何も思い浮かばない……。僕の脳みそは空っぽになってしまったのか」  千春は泣きそうな声でそう呟くと、「シノさん、ゴメンね。お腹空いてるのに」と言った。  千春、完全にパニクってる。  いろんな道具を落としたりして、相当慌ててる。 「千春」  俺は千春を呼んだが、全然耳に入ってないみたい。  ううん。これは、いかん。  慌てた様子もそのままに、キャベツの千切りを始めようとしたので、俺は慌てて千春の背後に回り込み、千春をギュッと抱きしめた。  千春の手が、ピタリと止まる。 「シノさん?」  千春が頭だけ振り返る。  俺は、千春の手から包丁を取って、まな板の上に置くと、千春の手を覗き込んだ。  指先には、たくさんの小さな傷。  きっと、針で刺しちゃったんだな……。  俺はますます胸がぎゅーっとなって、千春を更に抱きしめた。 「シノさん、どうしたの? ご飯、作れないよ」 「今夜はいいよ。冷凍庫にあるピザでも食べよ」 「え? そんなもので足りる? シノ、お腹減ってないの?」 「俺は、千春の思いやりでお腹いっぱい」  俺がそう言うと、千春はパチパチと瞬きをした。 「マスク作ってくれて、ありがとう」  続けてそう言うと、千春は頬をカッと赤らめた。 「あ、あれは……。役に立つかどうかわからない代物ですよ」  千春が気色ばんだ声をあげる。だから俺はこう返した。 「役に立つに決まってるよ。だって千春の思いやりがこもってるんだもん」  千春は目をキョロキョロとさせると、キッチンを離れ、ソファーの上に置いてある作りかけのマスクを手に取った。 「 ── ホント、見れば見るほど、ブサイクなマスク」 「そう? 可愛くできてるよ」  俺は千春に近づくと、ガタガタの縫い目を指差して、「この個性的な縫い目が可愛い。千春の頑張りが伝わってくる」と言った。  千春はなんとも苦い表情を浮かべると、口の端を歪ませながら「ぶさかわマスクか」と呟いた。  俺はプッと吹き出す。 「ぶさかわマスクだなんて、聞いたことない」  俺の高笑いにつられたのか、やがて千春も笑い始めた。 「じゃシノさん、他の人に笑われても、このマスクして会社行ってね」 「そんなのお茶の子さいさいだけど、生憎明日から在宅勤務になっちゃったからなぁ」 「え? そうなの?」  俺は、うんと頷いた。 「流石に社長が、これ以上社員を危険な目に合わせながら仕事をさせる訳にはいかないって言って、全社員に辞令が出た。どうしても会社に行かないと仕事ができない社員だけが社用車に乗り合わせて出社することになったよ。その他の社員は、在宅でできる仕事をする」 「シノさんは? どうやって営業するの?」 「会社支給の携帯電話を持って帰って来たから、それでお得意様に電話をかけまくるよ。皆不安がってるみたいだから、相談にのってほしいって声も届いているんだ」  千春はなんだか身体の力が抜けたみたいで、ソファーにどかっと腰を下ろした。  俺も隣に座る。  千春はため息をついて、「でもよかったです。やっぱりシノさんがバスや電車に乗るの、不安でしたから」と呟いた。  俺は、心配してくれてありがとうって伝えた。  そして今回、こんなことになって、気づけたことも。 「千春、俺、ちゃんと伝えなきゃって思うんだ」 「ん? なぁに?」  千春が優しげな顔つきで、俺のことを見つめてくる。  うん、もういつもの千春だ。  もう大丈夫。 「世の中がこんなことになってさ、今後の先行きとかいろいろ不安なことがたっくさんあるけど。でもそのお陰で、人一倍、人の頑張りが輝いて見える。人って凄いなって思うよ。柿谷の皆は、俺や千春に心配かけないようにって、新たなチャレンジの道を彼ら自身が見つけた。田中さん達女子社員が頑張ってるオンラインショップも、積極的に手厚い顧客フォローをしてるから、こんな時なのに逆に売上が伸びてるんだ。それを見てると、ジーンってきちゃうよ。感動する。俺も頑張らなきゃって思う。それに……」  俺は、真っ直ぐ千春を見た。 「千春がこうして俺の心配をしてくれてることが、凄く嬉しい。慣れない縫い物までして俺のことを守ろうとしてくれてる。毎日美味しいご飯を作って、俺の健康を気遣ってくれてる。こんな時だからこそ、そのありがたさが人一倍、心に響いてくるんだ。この病気は、そのことを教えてくれてる。世の中、理不尽なことがたくさんあるけど、決して捨てたものじゃないってね。 ── 本当にありがとう」  俺がそう言うと、千春は少し涙ぐんだ。  そして大きく息を吐き出すと、「まったく、あなたって人は……」と呟いた。 「ん? 何?」  俺がそう訊くと、千春は両肩を竦めて、ソファーから立ち上がった、 「何でもありません。やっぱり、ご飯作りましょう。久しぶりにカレーライスとかでいいですか?」 「え? ホント? やった!」  俺がにこーっと笑うと、千春は呆れたっていうような苦笑いを浮かべて、俺にキスをしたのだった。     I Feel Fine end. ── コロナ渦に国沢自身が陰鬱な気持ちになってしまったので、シノさんになぐさめてもらおうと思って書いた小ネタです。「オルラブ」を楽しんでもらえたすべての人にむけて書きたいと思ったので、今回はスター特典とはしませんでした。 本当にやまなしおちなしエチなしのささやかなワンシーンですが、わずかでも沈みがちな空気がふわりと和やかになるといいなぁ。 自分自身も、そしてこれを読むすべての方々に健やかな生活が早く戻りますように。では。(国沢)
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