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花を手折る
閉じた目蓋の下にある両眼が、どんな灯りも映さないと知った時、心の中で風が吹いた。空っ風は冷たく、鋭かったが、不思議と痛みもなく、涙も浮かばなかった。
ばあちゃん、と呼んだところで二度と目を覚まさない――可能性はゼロに等しいと、先ほど医師から宣告を受けた。
白いベッドに、無機質な病室と同化して横たわる人が、私の記憶にあるより小さいのは、きっと私自身の成長と、高い位置から見下ろすせい。顔のしわが増えても、手足の動きが鈍くなっても、どこかふてぶてしい強気な笑みと、しゃんと伸びた背筋は変わらなかった。常に身綺麗にし、髪を整え、自宅にはチリ一つなかった。
今でさえ、眠る姿に触れがたい静謐さはあっても、弱弱しい、という印象とは程遠い。
私は、この人が――嫌いだった。
自己中心的で、口うるさく、人の話に耳を貸さない。頑固な老人を、悪びれもせず堂々と貫く。年老いて丸くなる、なんて言葉とは、無縁の人。
口癖は、百を数えな、だった。
風呂場で湯船につかる時なら、まだよかった。子供の頃は意味も分からず従っていたし、十を十回数える早業を覚えたあとは、熱いお湯から早々に逃げることが出来た。
けれど、これが話の切り出しを遮る手段だと気づくのに、そう時間はいらなかった。
いじめられて返ってきた後、理不尽な仕打ちを訴える前。
怪我をして、痛みに泣き出したくなった時。
進学先と、受験勉強に、必死に悩んだ時。
なにかにつけ、百の数を呪文のごとく唱えさせた。数えているうちにごまかされた気になった。バカバカしい事この上なくて、中学に入った頃には、もう取り合わなかった。
高校進学を期に家を出た後は、ほとんど顔を合わせないまま、共に過ごした時間と同じだけの月日が流れていた。三十になった自分が、テレビの黒い液晶に、ぼんやりと映っている。
病室に、間もなく消灯だというアナウンスが流れた。
簡易ベッドが、病室に持ち込まれた。病院側の、ささやかな配慮。
しっかり者のばあちゃんは、自身の死んだ後にも、抜かりがなかった。百まで生きれば大往生だと、二十年前から言い続け、終活なんて言葉がはやり始めた時には、すっかり準備が整っていた。
万が一の時には延命治療をしないこと、臓器提供の意思表示、葬式の段取りから、墓場まで、全て手配済み。残された人間がすることは、式に出席し、役所へ死亡届を出すくらい。
無意味だと書かれた人工呼吸器を外す日を、一日だけ伸ばしてほしいと願ったのは、私の方だ。母親には、笑われた。あんた物好きねえ、と。
放送の予告通り、すぐに部屋は暗くなった。耳に残るのは、規則的な機械音だ。小さすぎる呼吸は、届かない。
こうして二人、暗い中に隣り合って寝ころぶと、否応なく記憶が浮かんできた。
『可愛くないね、アカリちゃんは』
『あんたは、あたしに似ちまって、難儀だね』
『自分から負けに行くなんて馬鹿だね』
暴言ばかりで、暗闇の中で失笑した。大抵はうとうととする中でぼそりとやられて、起きて思い出しては腹立たしく、けれど言った本人はとっくに忘れている、という塩梅で、私の抗議が通じたためしがなかった。もしくは、そらとぼけるのが上手かったか。
どちらだったかなんて、もうどうでもいい事だ。
寝物語に、戦時中、兵隊をたぶらかしたと豪語したこともあった。海を渡った先、銃弾と業火が目の前に迫り、爆音が響く中で、幾人もの兵士を相手にしたのだと。
『男ってのは馬鹿でね、死に際になったって強情張りやがるのさ。女子供捨てて、お国のために戦うのが本気で一番だなんて、いちいち叫ぶから、ややこしいんだよ。だから尻叩いて正気にさせてやるのが、一番。頭揺すってこっちだって叫んでやるのさ。死にたい奴だけ、死にゃあいんだ。死にたくないなら、逃げりゃあいいってね』
おかげで、ばあちゃんのいた部隊は脱走者が絶えなかったと言い、さらには激怒した上官でさえ、同じ脱走者に仕立ててやったと笑った。
どこまで本当か、分かったものではない。
だが、五十で死んだ連れ合いの丈の短い浴衣を着ると、周りの人間が優しくなっていい、などと嘯く人だったから、時代が違えば、希代の悪女になったかもしれない。
昔話はこれ一つで、他を聞くことはなかった。
ぴぴ、ぴぴ、と今までとは違った電子音がした。
腕時計を見る。黒い武骨なデジタル時計は、セットしたアラームとともに、文字盤が蛍光色に輝いていた。
午前零時。
起き上がって、枕元の読書灯を点ける。ぼやけた光が、周囲の輪郭を余計にあいまいにした。
日付が変わった。
「……誕生日、おめでとう。ばあちゃん」
嫌いだった人の誕生日は、忘れることが出来なかった。白寿の祝いは、花束を贈るだけで済ませた。どうせ次があると、信じて疑わなかった。
百歳。百まで生きれば、大往生。きっと、満足したに違いない。
いっそ縊り殺してしまおう、と手を見つめたこともあった。
ならば、とても簡単なこと。
壁際の隅。低い位置にあるコンセント。複雑につながった線。これを、ただ引き抜くだけでいい。
部屋の鍵を閉めて、閉じこもれば、一分なんてきっとあっという間だ。
垂れ下がった白い線を、掴む。
面白くない画像だ。ただの線、ただの線に、自分の手。決して白くも細くもない指が……震えていた。
ぴ、ぴ、ぴ、という音が、その内数字に変わった。
十、十一……二十四、二十五、二十六……三十……よ、んじゅうはち……ろ、く……ななじゅう、に……きゅう……ひゃく。
「気ぃつけて、いきな」
振り返った。私は驚いて振り返った。
「ばあちゃ、」
耳にこだましたのは、間違いなくばあちゃんの声だった。けれど、眠る姿に、変わった所はどこにもなかった。聞いた幻聴は、かつて、毎日言われた言葉だ。
風呂上がり、先に湯船を出るのはいつも私だった。古い家で、隙間風も段差も多く、風呂場はタイル張りだった。
テレビを見たくて急ぐ私に、何時でも同じ言葉が背を叩いた。
『気ぃつけて、行きな』
――百。
知っていた。忘れたつもりで、多分ずっと覚えていた。
……――百。
百を数えた後は、どんな言い訳も泣き言も、全部黙って受け止めてくれたことも。進学に必要な金額を用意してくれたことも。
私を否定することも、傷つけることもなかった、たった一人の人だった。
大人になれば、飲み込み切れない理不尽ばかりで、衝動のままに怒鳴りそうになったのは、一度や二度では無かった。
その度に、声が、響く。
子供だった私に、時に鋭く、時に噛んで含めるようにーー百を数えな、と告げた声だ。
辛抱しろと、ばあちゃんは言わなかった。けれど、冷静になれと諭されたのだと、ずいぶん前にようやく理解した。
大嫌いだった。自分に似ていると呟きながら、どこまでも自由に生きているばあちゃんが。
大好きだった。オシャレの話も、花の話も、好きな人の話も、馬鹿だねと言いながら受け止めてくれたばあちゃんが。
手の届かない所へ行ってしまうくらいなら。
私が連れ去って、誰も知らない場所に、埋めてあげたかった。硬い石の下じゃなくて、やわらかな土に包んで、好きだったガーベラの花を、名前の代わりにする。
一番似合う、真っ赤なガーベラの花束を、墓標にするのに。
……百。
『気ぃつけて、いきな』
私の人生を、そっけなく、確かに案じる声がする。
一生分の百を数えるうちに、夜が明けた。
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