ひとまずやってみるしかない。

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ

ひとまずやってみるしかない。

「あっ、しまった」  気づいたときにはもう遅かった。上りのエレベーターに乗ったまま振り返ったとき、僕の乗った電車の最後尾がホームから去ろうとする瞬間だった。  エレベーターを降り、僕は通路の隅っこで呆然とする。さっきの電車から降りてきた人々が僕の背後を通り過ぎてゆく足音を聞きながら、望遠鏡を抱えた僕は深いため息をつく。  僕はあの電車の中に壺を置きっぱなしにしてきてしまったのだ。これからすぐ作業だっていうのに、どうしてこんなうっかりしてしまったのだろう。しっかりと腕に抱いていた望遠鏡のことだけを考えていたからだろうか。でも、これまで七十六日分の夜をこうして望遠鏡と壺を持ってあちこちに出かけて作業した。今日に限って壺を忘れたのは、これまでの慣れと疲れが出てしまったのだろう。七十七夜目にして大失敗だ。  僕は駅の忘れ物係に届け出た。けれど、あの壺がすぐに僕の手元に戻ってくる保証はどこにもない。仕方なく、僕は気落ちして駅を出る。街はすっかり夜の闇に染まっていた。 「百八円になります。ありがとうございました」  とりあえず、目についた百円ショップに飛び込み、僕は壺の代わりに小さな樹脂製のバケツを買った。内心、本当にこんなものが役に立つのかなと思いながらも、ひとまず水を貯めるものがなければ何もはじまらないからだ。とにかくこの青いバケツでやってみるしかない。  それから僕はビルの裏にある人気のない公園にたどり着く。人々に見捨てられたような寂しい公園だ。てっぺんに小さなソーラーパネルの乗った照明灯が寒々と、僕以外に誰もいない公園を照らす。  申し訳程度に置いてある鎖の錆びたブランコ、同じく階段や手すりの錆びた滑り台、そしてまたあちこちが錆びたジャングルジム。あまりそこで水を飲みたいという気分なんて起こらないうら寂しい水飲み場、あまり手入れの行き届いていない植え込みに汚れたベンチ。それだけの公園。  僕はそんな公園の真ん中で望遠鏡を準備し、水飲み場でバケツに水を貯める。あの壺がなくてもできなくはない。ひとまずやってみるしかない。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!