第一話 行き倒れ

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第一話 行き倒れ

「もしもーし」  女の声だ。  エリッツが目をあけるとかすんだ視界の中に少女ともみえる年齢不詳の女性がこちらをのぞき込んでいた。地味な目鼻立ちだが丸顔と少し目じりが少し下がり気味の大きなとび色の目が優しげだ。体は少年のようにすらりとしていて、この街の役人のものらしい濃紺の制服をまとっている。  このレジスの街では浮浪者、物乞いの類はすぐに役人に連行される。それがこの街の治安のよさの所以でもある。 「ボク、お父さんかお母さんは?」  女性はエリッツに問いかける。短く切りそろえられた柔らかそうな栗色の髪が頰にさらりとたれかかっていた。小首をかしげる動作は小動物のように見えていっそう幼い印象を与える。堅苦しい制服は不自然なほど似合っていなかった。  エリッツは両親の保護が必要な年齢ではない。  反論しようにも喉は乾きに張り付いてしまい声がまったく出なかった。  いつの間にかあたりは薄暗く昼間の陽気が嘘のように肌寒くなっている。思わずぎゅっと手足を丸めた。このままだと夜中には凍えてしまうかもしれない。  エリッツがレジスの街に着いたのはちょうど暑い盛りの真昼間のことだ。春先とはいえ樹木がない街道は日が照るままに気温が上昇する。ろくな準備もなく衝動的に飛び出してきてエリッツはやけつくような喉の渇きと空腹におそわれ朦朧としていたため、そのときのことをあまり記憶していないほどだ。  この国の中心たる城をのぞむ巨大な街をさらに抱きかかえるように囲んだ高い外壁は全部で三重にもなっており、内側の警備は極めて厳重であった。ひっきりなしに出入りする旅人たち、商人たち、荷車などもすべて警備兵があらためている。エリッツがいた町も大きな町だと思っていたが、レジス城下とは比べようもない。  異国の顔立ちをした商人たちが荷の中のめずらかな細工のほどこされた壺や不思議な色合いの織物などを警備兵に問われるままに大声で説明をしている。街に害のありそうなものを持ち込まれないよう細心の注意を払っているのだ。  街に入ることのできなかった怪しげな連中は最外壁の内側にそってたむろし闇市のようなものを形成していた。通り過ぎるときにちらりと目をやると、いかにもガラの悪そうな男たちが紫煙をくゆらせながら、往来する大勢の人々を見て話をしていた。その横では傭兵風の男が外壁と木の枝にぼろ布を張りその日陰で眠っている。そんな妙な光景が外壁にそってずっと奥の方まで続いていた。ちょっとしたスラム街の様相だ。  なんとか街に入ることができたためエリッツは街道を歩き続けた体を日陰に休ませることができた。街の隙間のような場所のやわらかな草地と木陰がありがたい。わずかばかり持ち出した路銀はとっくに底を尽き、宿も食事もあきらめざるを得ない。  食べ物にはほとんど興味がないエリッツだったが空腹を経験しそれが死につながることを初めて意識した。それなら命をつなぐため物乞いや盗みをはたらくという選択肢もあったはずだが、そのことに思い至ることは一度もなかった。  黙っていると女性は肩掛けのかばんから金属の水筒をとりだしエリッツにほんの少し水を飲ませてくれる。 「一気に飲むとむせるよ」  エリッツが水を飲み下したのを認めると、女性はまたほんの少し水をくれた。 「私は街の見回り役のマリルっていうんだけど、一晩中ここに座ってもらうわけにはいかないのよ」  申し訳なさそうな表情でマリルは言った。 「身分を証明できるものは持ってる?」 「身分……」  ようやく喉からかすれた音のようなものが出た。正直に言えば家に戻されてしまうだけだし、そもそも「身分」というような大仰なものは持ち合わせていない。 「名前は?」 「お、おれは……」  何とか誤魔化したかったが続く言葉がなかった。 「名前、名前」  そんな逡巡を知ってか知らずかマリルは手を打ち鳴らして催促する。 「エリッツ……オルティスです」 「エリッツ・オルティス」  マリルは名前を復唱しながら胸ポケットから帳面を取り出すとメモを取る。 「この街にはどういう理由で来たの」  答えに窮しているとマリルの背後から長身の男が近づいてきた。また役人だろうかと思ったがマリルと同じような制服姿ではない。暗い色の外套をまとっていることはわかるが、黄昏時のことであり表情までは読み取れない。 「シェイル、この子、どうも様子がおかしいから外に放ってこようと思うんだけど」  外に……。  エリッツは絶望的な気分でマリルを見上げる。別に冗談をいっている雰囲気ではない。 「あの、おれ、おれは別に、この街に悪いことをしにきたわけじゃなくて」  会いたい人がこの街にいる。それだけなのだ。 「じゃ、何をしにきたの? お父さんとお母さんの名前を教えて。お家まで送るよ」  本当のことをいえば、父に報告されて連れ戻されてしまう。エリッツは隙をみて逃げようと腰を浮かすが、マリルは見回り役を任されているだけあって、素早い動きでエリッツの肩をつかむ。 「おおっと、だーめっ」  軽く押さえつけられているだけなのに体を動かすことができない。  寒いし、お腹がすいたし、動けないし。エリッツの目じりに涙が浮かんだ。  ずっと黙ってエリッツとマリルのやり取りを見ているだけだった男がようやく口を開いた。 「震えていますよ」  そういって、エリッツのことを指さす。そこには特に同情の気配は含まれていない。事象をそのまま読み上げたような声だった。 「私だって好きでやってるんじゃないの。仕方ないじゃないの、仕事なんだもん」  シェイルと呼ばれた男はしばし沈黙したあと、エリッツとマリルを交互に見る。 「このまま外に放り出したら死ぬんじゃないですか」  うっとうめくような声をあげてマリルが黙り込む。 「それによく見ると汚れてはいますがかなり質のいい服を着ています。死んだら後で問題になりませんか」 「そういうこと言わないでよ。気分が悪いじゃないの」  深くため息をつきながらもマリルは注意深くエリッツを観察する。 「――だから身分を聞いたんだけど答えないんだもの。どうしろっていうのよ」 「さあ」  男は無責任に肩をすくめた。 「あ、ねぇ、とりあえず死なないように何か食べさせて適温に温めてから街の外に放り出しておいてくれないかな」  さも名案を思いついたというようにマリルはぱっと顔を輝かせる。 「また都合のいいことを――」 「私は今仕事中なんだもの」 「これ、仕事の一環なんじゃないですか」  男の言葉をあっさりと無視して立ち上がると、マリルは「後は頼んだぁ」と、歌うようにいいながらその場を立ち去ってしまった。  しばし不思議な沈黙が流れた。観念したように男がエリッツのもとに歩みよる。 「立てますか」  そういって男はエリッツに手を差し伸べる。  残照の中に見えた男の顔はかなり整っている。濡れたように黒い瞳に黒い髪、この国ではめずらしい風貌だ。春の夜のようだと、エリッツは思う。父や兄たちとはまったく違う印象だ。エリッツは疲労のあまり判断力を失った状態でその手にすがりついた。
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