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まだ家の中はお互いの荷ほどき出来てない段ボールだらけ。でも、今日は智之さんがお休みだから、ひとまず買い物に行こうと、家を出たところ。
「そういえば昨日…柏木さん…でしたっけ。咲良さんの上司の方。お店に見えました」
「え…。智之さん、知ってましたっけ」
「御園の上司だった柏木と言います、って名乗られてたので」
「な、何か言ってましたか?」
「キリマンジャロを注文されて…お帰りの際に、御園は元気にやってますか?って尋ねられました」
あーまだ課長、私を心配してくれてるんだ。憎まれても恨まれてもしょうがないことしたのに。
「なんて答えたんですか?」
「元気です、とお答えしたら、たまには社にも顔見せろ、って言っておいてくださいと。――伝言伝えましたからね」
「はい、承りました。近い内に顔を出します」
実は先月の末づけで、仕事はやめてしまっていた。智之さんはやめなくても…と惜しんでくれたけれど、私が智之さんの仕事をもっと手伝いたいと思ったから。
智之さんの指導を受けながら、ただいまバリスタ修行中。
「咲良さんがお付き合いしてたのって…」
「あ! 智之さん、あそこのパン屋さんです。昨日話したの」
私は露骨に話題を逸らす。わざとらしすぎたし、バレバレだな。
でも、智之さんにも――智之さんにだからこそ、課長のことは話したくないっていうか、何をどう言えばいいのか――今はまだわからない。
「おいしそうですね」
智之んさんも私の気持ちを汲んでくれて、それ以上は突っ込んでこなかった。ショーケースに並べられたパンをのぞき見してから、すぐに店内に入る。
それほど広くない店内は、トングとトレーを手にした人で賑わっている。どれにしようかと品定めしてる目が、みんな真剣だ。
どれもおいしそうで、目移りしちゃう。
「咲良さん、どれがいいですか?」
「どうしよう。このチェリータルトおいしそうですけど、レーズンとくるみのパンも捨てがたい。智之さんは?」
「僕はどうしようかな。フランスパンが好きだから、ベーコンエピかな」
「あ、それもおいしそう」
「じゃあ、半分こしましょう」
絞り切れなくて、トレーいっぱいに載せたパンを、半分店内で食べて、残りは持ち帰る。
手を繋いで歩く帰り道。並木道の樹に、行きに見たバルーンリリースの名残の風船らしきものが、引っかかってた。
「飛べなかったんですね」
「持って帰ります?」
「いえ」
「じゃあ、空に飛ばしましょう。このまま萎んだら可哀そうだから」
智之さんはまるで風船が親鳥と離れた雛のように言って、樹の枝に手を伸ばす。引っかかっていた糸を離すと、青い風船はふわっと空に舞い上がった。
「帰りましょう」
「はい」
風船を取るために離れてた手が、再び結ばれて、たったそれだけのことなのに、なんだか泣きそうな幸福感を覚えた。
いろんなことがあって、回り道も遠回りも沢山して。楽しいことばっかりじゃなかったし、傷つけたり傷ついたり、これからもきっと嫌なこともあるけど。
透に振られたから、智之さんに会えたし、離れた時の寂しさを知っているから、絶対にもう離れたくないって思える。
「智之さん」
「はい」
「私、今幸せです」
そう宣言すると、智之さんは照れたように笑ってから、「僕もです」と頷いた。
(完)
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