千鱗の鱗と、死に至る病 ~蛇姉妹・次女編~

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「――さま、姉様っ!! わたしは、おかしくなった!」  そんな取り乱した声とともに、急に部屋の襖が開き、頬をおさえた少女が飛び込んできた。 「あら、どうしたの? 血相を変えて。ほら、髪、ほつれているわ」  静かに本を読んでいた姉は、少女を胸でやんわりと抱きとめ、穏やかに微笑む。 「う、む……う。姉様、聞いてくれ」  次第に息を整え、落ち着いて話し出す少女に、姉は化粧箱から取り出した櫛で髪を梳きながら、相槌を交えて聞いている。 「今もそうだ。考えれば考えるほど、わたしは、痛くて、苦しい」 「まあ、それは大変ね」  くすくすと、妹の必死の訴えにも笑顔で応じる姉。 「姉様、笑いごとではない! 胸が、とても痛いんだ。このままでは、わたしは死んでしまう!」 「死ぬことはないけれど、それはつらいわね」 「なら、どうすればいい……、姉様。この痛みは、わたしではどうにも治せないんだ」 「そうね、あなたの痛みを……和らげてくれる特効薬なら、一つだけあるの」 「! それは何だ、何と言う薬だ? どこにある?」  せがむ少女に、姉はうって変わって真剣な顔で語りかける。 「聞いて。その特効薬はね、あなたにしか効かなくて、そしてもしかすると、あなたを殺してしまうかもしれない。そんな、危険な薬なの」  ごくりと、少女は息をのむ。 「特にあなたの場合は、危険が大きいわ。今ならまだ、放っておけばいつかは痛みを忘れて、死に至ることはないの。ねえ――どうする?」  ぎゅっと、後ろから少女を抱きしめる姉。少女は俯き、自分の着物の裾を握りしめ、答えた。 「忘れるのは……、忘れるなんて、わたしにはできない。それはきっと、死よりも恐ろしい」  震えながら、けれどもしっかりと答えた少女に、姉は小さくため息をついてから、微笑む。 「あらあら、誰に似たのかしらね。そこまで言うのなら、教えてあげる。その特効薬はね――」 「こうして夜月を眺めるのも、あと何回かな」  呟きながら天に掲げた手のひらは、随分と白く細く見えた。  ――青年の体は、病に蝕まれている。  数年前、妙な胸の苦しさから訪れた診療所で発覚したそれは、現在の医術では治しようもない病だった。普段の生活ではそれほど支障はなかったが、どうやら心の臓の病らしく、次第にその鼓動が弱まり、やがて止まるのだ。 かかれば、持って数年。病には貧血の気もあるため、日の下を歩くのもままならず、こうして夜半過ぎに診療所を訪れていた――。 「~~♪」  だが、青年は絶望の淵に立たされているにもかかわらず、まるで鼻歌でも歌いたくなるような気分であった。 『お主は……、もう、長くはないぞ』  初診からずっと通っているよしみの医者からの最後通告を受けた帰り道。  月が高くのぼり、静まりかえる長屋の立ち並ぶ通り、青年は歩いている。彼はその夜空の星を数え、植えられている柳の葉の音に耳を澄まし、桶の上であくびをする猫の愛らしさにため息をつく。  それは死期の迫る恐怖ではなく、死に別れる現世をいっそう楽しもうとしているかのような、そんな姿だった。  いつか聞いた童歌を口ずさむ家路の途。町のはずれの橋を渡ろうとした時、青年はあるものに気づいた。  「おや?」  河原に見慣れぬ着物を着た、年若い娘が倒れ伏していた。 「こんな夜更けに……、かわいそうに」  暴漢に襲われここに捨て置かれたのか、周囲に人影はない。青年は川べりを急ぎ足で降りた。近くまで来ると、娘の様子がはっきりと見て取れるようになる。  うつ伏せではあったが、鮮やかな朱染めの着物は、ざっとみた限りでは乱れた様子はなかった。そのことに少しだけ安堵しながら、青年は声をかける。  「もしもし、どなたかは存じませんが、大丈夫ですか?」 「ん……み……」 どうやらまだ彼岸に足を踏み入れてはいないようで、娘とおぼしき少女は小さくうめいた。 「! もしもし、えっと、今起こしますよ」  うつ伏せでは苦しかろうと考えた青年は、ためらいながらもの脇に手を差し込み、仰向けにする。 「は……」  青年は声をかけようとして、言葉が止まる。  月明かりに照らされた少女の顔は、これまで青年がみてきたどの女性よりも艶やかだった。そして化粧っ気がないにもかかわらず、白粉をつけたように白い肌。それは青年のような病による白さではなく、月のしとやかな光をうつしだす、美しい白さだった。  しばらく青年が放心したように見惚れていると、少女の長いまつげが微かに揺れ、赤い唇が静かに震える。 「み……み、ず、を」 「あっ! は、はい」  そのうめきに青年はハッとして、少女を横たえてから川に向かう。水筒を持っていなかったため、手酌で川の水をすくい、戻ってきて少女の頭を膝に乗せてから、唇にそっと触れた。  まるで桃のような柔らかさに、青年は内心震えながら、少しずつ水を飲ませていく。 「……あ、う、う?」  やがて少女は気がついたように、ゆっくりと瞼を開いた。まだ瞳の光はおぼろげだが、意志の強そうな眼差しが青年をとらえる。 「お、おまえは、誰、だ?」  彼女が気を失っていた時よりもいっそう浮き世離れしたその美貌に、青年はそのぶしつけな聞き方を気にしてはいられなかった。 「え……あ、僕は……」  しどろもどろになりろれつが回らない青年。彼自身もこの戸惑いに困惑していた。  やがて、徐々に少女の意識が戻ってきたのか、今の状況を理解した様子で、陶磁のように白い頬をうっすらと朱に染めて呟く。 「わ、悪いが、その。わたしは……大事ない。だから、その……」  青年の膝の上で恥ずかしそうにそっぽを向き、所在なさげに着物の胸元で手をごねる。  そこまできて、ようやく青年も状況のまずさに気づき、 「あっ、わ、ご、ごめん!」  と慌てて少女を抱き起こし、バッと離れた。  ――それからしばらくの間、二人の間に妙な沈黙が流れた。  やがて少女は、罪悪感からか背を向けている青年と、座っている自分の膝元を交互に見ながら、口を開いた。 「すまない、助かった」  かけられた声にビクッとした青年だったが、やがてそれが礼だということに気がつき、胸をなで下ろしながら尋ねる。 「ねえ、君は、どうしてこんなところで?」  すると青年の背に、なぜか気まずそうな声色が帰ってくる。 「こ……これは、持病の、癪(しゃく)……だ」 「癪って、大丈夫なの?」 「大事ないと言っただろう。人間風情が、わたしに構うな」  意味深な敵意のある返事に、思わず振り返る青年。  そこには彼とは対照に、立ち上がりすらりとした背を見せる少女の姿があった。その背丈は意外にも青年より高く、少女の面持ちと相反してたおやかな印象を受ける。 「あ、あの。君はこんな時間に、家人は心配しないの?」  青年は場を繕うように言葉を投げかけた。汚れのない相貌やあつらえられた着物の上質さから、どこぞの良家の娘かと思ったのだが、少女はフン、と鼻を鳴らしそっけなく答える。 「心配? 姉様も妹も心配などするはずもなかろう。わたし一人、人間に囚われるほどもうろくしてはいない。それ以前に、お前こそこんな夜更けに何をしていた? まさか生娘が行き倒れるのを手ぐすね引いていたわけでもあるまい?」 「え、ぼ、僕?」  彼女の声には嘲りの色もあったが、青年にとっては初めての少女からの質問。緊張して震える声で答える。 「僕は、町にある診療所の帰りだよ」 「こんな時間にか?」 「昼間は……、外に出られないから」 「なに?」  青年の答えに、少女は怪訝そうに顔だけ振り返った。そうして青年をじっと見つめるその瞳が、わずかに細くなる。 「お前……」  少女は何かに気づいたように表情を歪め、言葉を詰まらせた。それを青年は、少女が彼の事を不審に思ったものと勘違いして、慌てて取り繕う。 「あ、ぼ、僕は怪しい者じゃないから! 少し体が弱いだけで」 「……少しでは、ないだろう」 「え?」 「いや、その、何でもない。……だが」  何かをはかるような少女の眼差し。青年は言葉の続きを待つ。 「だが、お前は、人間のくせにおかしな奴だ」 「そ、それは、ええと……」  平然と真顔で言う少女に、褒められているのか、けなされているのか、青年は返答に詰まってしまう。 「――フン。わたしはもう行く。お前も、せいぜい行き倒れないようにな」  やがて、まるで冷めてしまったような口調でそう少女は言い放ち、踵を返した。 「あ、ま、待って! やっぱり、女の子の一人歩きは危ないよ。家まで、送るから!」  慌てて、引きとめようとした青年の言葉に、少女は一瞬だけ足を止めた。しかし、 「生憎だが、わたしの家は山二つ向こうだ」  その返事に青年が驚いている間に、少女はすぐに再び歩き出す。そして、橋から伸びる柱の影に隠れたかと思うと――、まるで煙のように消えてしまった。
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