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彼の心は、昨日から沈んだままである。
お喋りが災いして帰蝶にはすっかり嫌われてしまったと思っていたが、頼明老人は二人の縁組を考えていてくれたらしい。年がいささか離れ、相性も良くないが、夫婦となって時間をかけてお互いの美点を知っていけば、両想いになれたかも知れないというのに……。道三のせいで、帰蝶が彦太郎の妻となる未来はすっかり潰えてしまった。
「人の夢とは、儚いものだなぁ……」
「その通りです、彦太郎。あなたは、理想や夢に大きな期待を持ち過ぎている」
後ろから声がして、驚いて振り向くと、そこには旅支度を整えた帰蝶が立っていた。
「き、帰蝶様。あの……」
「その雀の雛」
と、帰蝶は彦太郎の手のひらの上で震えている雛鳥を指差す。
「ずいぶんと衰弱しているようだから、どうせすぐに死にますよ。仮に助かったところで、人間の手で育てられて野生の本能を失った生き物は、自然にはきっと帰れないでしょう」
「そ、そんな……」
「巣から落ち、親鳥とはぐれた時点で、その雛は生存競争に負けてしまったのですよ。弱き者は、死ぬしかない。人の世も、鳥の世も、弱肉強食。無駄なことはせず、捨ててしまいなさい」
「…………」
彦太郎と霞は、具合が悪そうな雀の雛を無言で見つめ、涙ぐむ。雛鳥が哀れだと思い、捨てるに捨てられぬのであろう。そんな心優しい兄妹を、帰蝶は冷ややかな眼差しで見下ろしていた。
「……帰蝶様。こんな小さな命すら守れぬ私に、明智家の人々や美濃の民たちを守る力などあるのでしょうか」
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