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日常
「恋愛なんて」
そう言うと大抵の人には哀れまれるか、呆れられるかのどちらかだった。
ずっとそうしてきたのが「私」だった。
別にそういったものを嫌っているわけでも、悲観しているわけでもない。
ただ雑然と、自分が誰かに好まれるとは到底思えなかった。
「由月(ゆづき)ちゃーん!このダンボール、ここ置いてていいー?」
同じ仕事仲間の宝田(たからだ)さんが、大きめのダンボールを抱えて重そうにこちらへやってくる。
「あっ!はい!そこ置いておいてください!今日発売の新刊なので、コーナーに並べておきます!」
入荷したばかりの書籍を検品しながら私は返事を返した。
周りにはせわしなく動き回る同僚達がバタバタと店内を行き交っている。
私、広瀬由月(ひろせゆづき)もその中の一人だ。
「あー腰が痛い。ほんっと本屋って重労働多すぎだわねぇ」
そう言いながら宝田さんが腰を抑えて伸びをする。
今年で五十を越える彼女には、重いダンボールを運ぶのは大変なんだろう。
なるべく私が運ぶようにしているけれど今は月初めの新刊が山のように入荷する日なので、そうも言っていられないのが申し訳ないところだ。
本屋さんさんと言えば、ゆったりとしていて忙しいイメージなど無いけれど、実際は重い書籍を何度も運んだり、ダンボールに詰め込んだりと結構体力のいる仕事なのだ。
私も「本に囲まれて仕事がしたい」なんて動機はかなり安易だったから、入ってすぐの頃はあまりの忙しさと重労働に少し後悔した。
でも、今はこの職場がとても気に入っている。
立ち並ぶ本の表紙は色とりどりで、独特の紙の匂いが心を落ち着かせてくれる。活字も漫画も、絵本もみんな大好きな私にとっては、まさに天国のような職場だと思う。
書籍の検品が六箱目に差し掛かった時、ふうっと一つ息を吐いて額の汗をぬぐった。
肩より少し下まである髪はシュシュでまとめているけれど、それでもやっぱり動き回っているせいか汗をかいてきた。
「工藤店長!」
嬉しそうに名を呼ぶ宝田さんの声が聞こえて、私は下げていた視線を上げる。
「お二人とも、ありがとうございます。大変でしょう。重いものは僕が運びますので、遠慮無く言ってくださいね」
そう言って、近所の奥様方にも評判の優しい笑顔を浮かべる男性は、このお店「K―BOOKS」の店長、工藤孝弘(くどうたかひろ)店長である。この店のオーナーであり、経営者だ。
K-BOOKSのKは、工藤のKだと宝田さんが言っていた。
私の住むこの街は、静かでのんびりしているけれど、どちらかというと「田舎」と言われるところ。
そんな街で唯一、大き目の書店であるこの「K-BOOKS」は、工藤店長のお祖父さんが始めたらしい。
身長百七十四センチ、三十一歳独身。柔らかそうだけど少しハネ気味の髪は、茶色がかっているけど染めていないらしい……ってこれは全て宝田さんに聞かされた「店長情報」だったりするのだけど。
格好良い、というよりどちらかというと可愛い感じのする男性。
私と違って、人に与える第一印象はすこぶる良い。
「まあまあ!気を遣っていただいちゃって!ほんとに工藤店長ってば優しいんだからっ。顔も綺麗なのにもったいないわぁ。これで独身なんて!」
宝田さんが、工藤店長を見ながらまくし立てる様に喋りだす。
それに私はまずいなぁ、と内心苦笑いを浮かべた。
この調子でいつもの「早く結婚しろ」トークに入りだしたら厄介だからだ
私は隣に立つ工藤店長の顔色を伺った。
案の定、彼も少し苦笑気味に宝田さんの話を聞いている。
長い睫毛は綺麗なアーチを描いていて、鼻筋はすっと通り綺麗な卵形の輪郭にシャープな顎。本当に綺麗な顔立ちをしているなぁと思う。常連さんに女性が多いのも頷ける。
人気の秘密はその外見だけでなく、彼の纏う柔らかな空気や、こうやって誰にでも優しい所にもあるんだろう。
ぼうっとそんな事を考えていると、ふと、工藤店長がこちらを向いたので視線が合った。
「広瀬さん?」
先ほどと同じキラキラスマイルを浮かべた彼が、伺うように私の名前を呼ぶ。
…………。
一瞬の間を空けて、私は慌ててその視線から逃げ出した。
「なんでもないです……。あ、宝田さんもう十分前ですよ。急がないと」
「あらほんと!もうお店開けなきゃ!さあさあ!じゃあ工藤店長もこれ運ぶのお願いしますね!」
言うが早いか、宝田さんは傍にあったダンボールをどさっと店長に渡し、バタバタと走って行った。
お店の自動ドアのロックを解除するためだ。
私も広げていた本をまとめ、レジを開ける準備にカウンターへと移動する。ダンボールを抱えたままの彼の視線を背中に感じたけれど、それは気にしないことにした。
原因は先ほどのやり取りだろう。
どうしてか、私は彼の事が苦手だった。
ただニコニコと人当たりが良い人というのが、なんだか胡散臭い気がして。
正直に言うと、笑顔が「嘘くさく」感じるのだ。笑っているのに、どこか掴めないところが少し恐くて。
彼の事をそんな風に思っているのは私だけかもしれないけれど。
でも私がそう感じている事は、不思議と彼自身にも伝わっている様だった。
「それじゃあ、開店しまーす!」
宝田さんのいつもの一声が聞こえ、奥に居たスタッフ達と私、そして工藤店長が「お願いします!」と返事を返す。
開店コールは、工藤店長ではなく、もう十年以上勤めている宝田さんの役目である。
彼女の声で、K-BOOKSはオープンする。
「いらっしゃいませ!」
店内放送の音楽にのせて、皆の元気な声が響いた。
これが、私の日常。
誰かに恋していなくても、恋人がいなくても、好きな仕事、好きな職場で。
店長は少し苦手だけど、仕事仲間は皆良い人で。
平和で落ち着いた毎日の繰り返し。
それで幸せだと思っていた。
それで満足していた。
けれど、この時の私はその日常に変化が訪れてしまう事など、予想だにしていなかった。
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