雨と煙草と、赤い傘

4/4
12人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
本日二度目の秀悟さん宅。綾美さんはもういないみたいだった。 あれから、互いに無言のままここまで引きずれるようにして連れてこられた。付いたとたん秀悟さんがドカッとソファーに座ったので、俺も向かい側に座った。訳も分からず連れ戻された俺は、秀悟さんが何か言ってくれるのを待っていたが、顔を覆ったまま動かなくなってしまった。 「秀悟さん、どうしたんですか」 「それはこっちのセリフだ。何で急に帰ったんだ。俺は待ってろって言ったのに」 「すいません」 「まあ、それはもういい。それより、さっきの男は誰だ」 初めて秀悟さんが俺のことを聞いてきた。いや、俺についてではないけれど。 今までは、何も聞いては来なかった。俺にとってそれは気が楽だったし、他人に聞かせて楽しい話は何一つなかったからありがたかった。 その代わり、俺も秀悟さんのことはあまり知らない。それでいいと思っていたけど、そのせいでさっき綾美さんに嫉妬してしまったのだ。 「その前に、俺の自身のことについて話してもいいですか? 」 今まで何も話さなかった俺が急に言い出したものだから、秀悟さんは驚いていた。だけど、すぐに優しい顔になり、うなずいてくれた。 「俺のには、仕事で滅多に帰ってこない父と、浮気性の母と、年が少し離れた兄がいます。父とはもう何年もあっていません。兄も、高校を卒業と同時に海外留学して以来会っていません。だから、俺はずっと母と二人暮らしでした」 仕事が好きで、家族のことなんて何とも思っていないような父のことを、母はずっと愛していた。ずっとずっと、父が家に帰ってくるのを待っていた。だけれど、それはいつまでたっても変わらない。 いつしか母は、家に男を連れ込むようになっていた。最初は俺や兄貴がいない時間を狙っていたのだと思う。でもいつしかそんなことを気にすることもなく、複数の男と関係を持っていた。 いつもはデートだとか言って、外に出かけていくのだが、雨の日は家で行為にふける。俺はそれが耐えられなかった。だけど、俺にはどこにも行く場所がなくて、結局家にいるしかなかった。 「そんな拷問のような日々を過ごしていく中で、一人の男に声をかけられたんです」 「それがあの男だったのか」 「そうです。あの人は森内和陽、兄の同級生で、母の愛人の一人でした」 もともと、兄と仲の良かったカズさんのことは知っていた。ただ、母の愛人になっていたことはその時初めて知った。 「カズさんは、俺に逃げ場を与えてくれました。それで少し、楽になったんです」 それでも、運悪く雨の日にカズさんが母の相手をしていることもあって、そんなときは初めて秀悟さんとあった公園で時間をつぶしていた。 「俺たちが初めて会ったあの日も、そうだったんです」 「そうか」 「はい、あの日は特に、気持ちが沈んでいたから、秀悟さんに声をかけられて思わずついていったんです」 「なあ、那鶴。それだけじゃないんだろ」 「いえ、あの時はほんと深く考えることなく秀悟さんについていきました」 「そうじゃなくて、あのカズって男とお前、ほかに何かあるだろ」 「それは……はい。カズさんは俺の初めてのひとです」 どういう反応をされるだろうか。男同士で、なんて普通に考えたら気持ち悪いだろう。怖くて顔を上げられなかった。 「お前は、あの男が好きなのか」 「いえ、そういうわけじゃなかったんですけど、雰囲気に流されました」 カズさんが俺を抱いたのは、俺が兄さんに似ていたから。母さんの愛人になったのも同じ理由だ。 カズさんは昔から兄さんのことが好きだった。それが決して報われないとわかっていながらその思いをずっと抱えていた。 その姿が痛々しくて、何かしてあげたいと思ってしまったのだ。 「母がヤってるとこ見て育ったようなものなんでそこらへんに関しては、結構思考が緩かったんです。だけど、カズさんと関係を持ったのはその一回だけでした」 「そうか」 「……軽蔑しましたか? 」 「いや、それはない」 真剣な顔でこちらを見つめてくる秀悟さんには、俺に対しての蔑みといった感情は見られなかった。ただ、そこか悔しそうな雰囲気を感じたが、よくわからない。 「まあ、俺の話はこんなものです」 「そうか、なら、今度は俺の話を聞いてくれ」 そう言って、静かに目を閉じた秀悟さんは、一つ、大きな息を吐いた。 「あの日、声をかける前からずっと、お前のことを知っていた」 秀悟さんの口から出たのは思いがけない一言だった。前から俺を知っていた? 一体どうして。 「俺は普段は煙草を吸わないんだが、うまく描けなくなった時だけ、気分転換に吸ってたんだ。その時に、いつからか、雨の公園に、毎回赤い傘があることに気が付いたんだ」 赤い傘、それはもしかして。男には似合わない、レースのついた真っ赤な傘。それは唯一母からプレゼントされたものだった。 愛人からもらったいらないものを俺に押し付けただけなのはわかっていた。でも、普段俺のことを気にもしない母が、確かに俺を見ていた瞬間だったから。 だから、女物のその傘を俺は今でも使っていた。けれど、それを差すたびに悲しくなった。 「最初はその寂しそうな様子が気になった。だから雨の日は、煙草片手に外を眺めるのか習慣になった」 例の公園はこのマンションの向かい側にあり、確かにベランダからなら俺が毎回いた場所がはっきり見えた。でも、見られていたなんて気が付かなかった。 「そして見ているうちに、どんどん、ある思いが膨らんでいった」 そっと、秀悟さんの右手が俺の頬に触れた。目元から、あごのラインまでを行ったり来たり。それはまるで涙を拭うような仕草だった。 「実際には、遠すぎてわからなかったが、俺にはお前が泣いているように見えたんだ」 もしかしたら、雨でそう見えただけかもしれないがな、なんて言われてドキッとした。 確かに俺は、雨に濡れる木々を見ながら、泣こうとしていた。泣いても雨でわからないだろう、と。 「だから、お前を笑顔にしたかった。思いっきり笑ってほしかったんだ」 ふいに、抱きしめられた。カズさんよりも、もっと優しいはずなのに、苦しく感じるのはなぜだろう。こんなにも、胸が苦しい。 「20も年の離れたガキ相手に何してんだって感じだが、ずっとお前を見ていた。……好きなんだ、那鶴」 何が起こっているかわからなかった。ただ、どうしてか涙が止まらなくて。秀悟さんが、俺の笑顔を見たいって思ってくれてるのに、何泣いてんだよ、おれ。 「なあ、那鶴。これからも、お前の居場所になってやる。だから、俺のものになってくれ」 「な、なります。俺も好きです、秀悟さん」 雨と煙草と、赤い傘。それらが俺を、愛する人へと導いてくれた。だからもう雨が降っても大丈夫。俺の隣には今日も彼がいるから。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!