三ノ刻の鐘

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子供の頃住んでいた家の玄関から伸びた廊下の先に、古い大きな柱時計が飾られていた。 振り子はいつもゆったり大きく左右に振られ、カチカチと秒針の音が聞こえる。 昼間には気づかないその音は、夜になるとかなり不気味に響いていた。 その柱時計は、じいさんが知り合いから空き家だからと譲り受けた時からあったらしい。 毎朝、じいさんは柱時計の扉を開けて、振り子が止まらないように栓抜きみたいなゼンマイでネジを巻いていた。 だけど、その柱時計は壊れているんだ。 長針が真上に来てもカチッと一瞬鳴るだけで、時刻を知らせる鐘が鳴らない。 何度修理をしても、それは変わらなかった。 ただ、時々、忘れた頃に柱時計は鐘を鳴らす。 それは決まって、夜中の三時。 じいさんは、三ノ刻の鐘と言っていた。 地を這うような低音で音割れているその鐘の音は、廊下を響き渡らせる。 僕はそれを聞いて、いつも心臓を掴まれたように苦しく、不安に襲われる。 何故なら、三ノ刻を告げるその柱時計の音は、我が家では警戒を意味するものだったから。 じいさんの家の近くには霊道というものがあって、霊の通り道になっているらしい。 時々、そこを通るはずの霊や妖怪、鬼が道を外れて近くの家に悪さをしに来る。 あの古い柱時計には付喪神が宿っていて、危険を教えてくれるという。 三ノ刻が鳴り響くと、二階から小さな灯りを持ったじいさんが下りてきて、来客や家族がいる部屋の襖を二度ノックしてから襖を少しだけ開ける。 「鬼が通る。用心せよ」 そう言って、部屋を順繰り回っていく。 じいさんは僕の部屋の襖を二度ノックして、僅かに開いた襖の隙間からこちらを覗いた。 「まさる。鬼が来る。布団をかぶって身を潜めなさい。決して布団から出てはいけないよ。顔を出してはいけないよ」 僕は頷いて、布団を頭から被って身を潜める。 じいさんはみんなに知らせると、そそくさと部屋に戻っていく。 そして、次の刻を告げる音が鳴るまで、僕らは布団の中で耐え忍ぶ。 じいさんが二階に戻ってすぐ、玄関の戸を三度叩く音がする。 鍵はもちろん閉まっていて開かないはずが、次には廊下を歩く足音がする。 同時に、何かを引きずる音も。 鬼が家の廊下を歩き回り、何かを探し回る。 じいさんから、それが鬼だと教えられてきた。 姿を見た者は、何かを奪われる。 心だったり、肉体だったり。 昔、忠告を無視した嫁さんが、トイレに行ったまま行方不明になったり、姿を現したかと思えば、ただただよだれを垂らし、虚ろな目で佇み、すっかり心が壊れてしまっていた。 時には、廊下に服と人の皮らしきものだけが残り、姿形も消した人もいたそうだ。 部屋で作業をしていた親戚のおじさんは、翌朝発狂した挙句に道路に飛び出して事故死した。 その道路、いつもは車なんてめったに通らないというのに、おじさんが飛び出した瞬間に猛スピードで車が走って来たという。 車はそのまま走り去り、犯人も見つからなかった。 そんなことが重なり、親戚の人らはじいさんの家から出て行き、遊びに来ても泊まることはなくなった。 僕の両親は仕事の関係で夜はほとんど家におらず、結局じいさんの家から出るまで一度も柱時計の音を聞くことはなかった。 そして、中には子供だけを狙う鬼がいた。 そいつは柔らかな子供の肉が大好きで、いつも大きな袋を持ち歩き、子供を見つけては袋に詰め込んで、地獄の入り口で喰らうという。 そんな話を聞かされ、僕はずっと言いつけ通りに布団で身を潜めていた。 それは林間学校に行った時。 夜になって、消灯した部屋で友達とこっそり怖い話をすることになった。 その場にいた六人が順繰り、自分が体験した怖い話をしていくのだけど、僕は他に話もなくて三ノ刻の鬼の話をした。 みんなは怖がってくれたけど、鬼は信じてはいないようで、よく出来た作り話だったと言われてしまった。 僕は、本当に鬼が来るのだと言ったけど、友達の一人に 「じゃあ、その鬼ってどんな姿形してるんだよ」 と聞かれ、黙り込んでしまった。 だって、僕は今までその鬼の姿も顔も知らないのだから。 それを伝えたら、臆病者だと大いに笑われた。 だから、次に三ノ刻が鳴ったら、気づかれないように鬼を見てやろうと思った。 それから一ヶ月ほど経った深夜三時、柱時計が不気味な音を立てて鳴り響いた。 じいさんが見回りにやって来て、それからいつものように玄関の戸が三度鳴った。 僕は布団を頭から被り、少しだけ隙間を開けて廊下の方を見ていた。 遠くから廊下を歩く足音とズズズズッと何かを引きずる音が聞こえて来た。 ―鬼が家に入って来た。 僕の心臓が強く鼓動し始めた。 ゆっくりと近づいてくる音が止むと、何処かの部屋の襖を三度叩く音がした。 両親は今夜も仕事でいないし、客人もいない。 一階にいるのは僕だけだ。 襖はすぐに閉められ、また鬼の足音が聞こえてくる。 だんだんと僕の部屋に近づいてくる。 心臓の鼓動がさらに早くなるのを感じながら、僕はほんの隙間をじっと見つめていた。 足音は、すぐそこまで迫っている。 すると、廊下の電気は消えているというのに、すりガラスの向こうが白くぼんやりと明るく、そこに人影が現れた。 コンコンコン 襖を叩く音が聞こえる。 僕はゴクリと唾を飲み込んだ。 襖がゆっくりと開いていく。 開いた襖の隙間から赤黒く汚れた装束の裾が現れ、老婆のようなシワシワで黒く汚れた足が見えた。 爪は長くてひどく反り返っていた。 布団を少し持ち上げると、鬼の上半身が見えてきた。 鬼の装束は元々白かったようだが、そのほとんどが赤黒く汚れ乱れていた。 その時、鬼の呻くような息遣いが聞こえてきた。 ―大丈夫。目さえ合わさなければ、きっと大丈夫。 そんな根拠のない自信を胸に、ゆっくりと視線をあげていく。 鬼の腕は浅黒く、爪はかなり伸びきって何かが巻き付いていた。 『えっえっえっ』 老婆のような笑い声が聞こえた。 『かおりガするゾ。どこだエ、どこだエ。えっえっえっ』 途端に寒気が全身を襲った。 畳の裏には前の持ち主が貼ったお札のおかげで部屋は守られているようだが、鬼と目が合えば魂を吸われてしまうと、じいさんは言っていた。 子供の肉が好きな鬼婆は、執着心が強くてその子をさらうまで、何度も何度もやってくるという。 どうしよう。 僕はそっと布団を下ろし、どうか立ち去るようにと祈った。 『何処ダ、何処ダ。見エぬぞ。出テこい、小僧』 鬼はイラついているのか、襖をガタガタと揺らしている。 『かクれんぼトは小癪ナ小僧ヨ。よいゾ、待トうじゃナいか。姿見せルまで、ズっとずッと待トうぞ。そシて、必ズお前ヲ喰おうぞ』 部屋に流れる冷気と恐怖で、僕は布団の中で泣きながらガタガタと震えていた。 その時、何処からか読経の声が聞こえてきた。 ピタリと止んだ鬼の声。 読経の声がだんだん大きくなって、足音とともに数珠の擦れる音がした。 その声に反応するかのように、鬼は発狂して襖や壁を叩きつけた。 何が起こっているのかわからず、ただただ僕は怖くて蹲っていた。 絶叫する鬼の声。 ―覚エテイロヨ。 鬼がそう言った後、柱時計の鐘が鳴った。 部屋に漂っていた冷気も鬼の気配も消えていたが、僕は怖くて布団から出られなかった。 すると、布団越しに頭に何かが乗って、ポンポンと二度叩かれた。 読経の声もいつの間にか消えていて、僕は恐る恐る布団から這い出た。 部屋の襖は閉まり、そこには誰もいなかった。 ただ、襖の縁と壁には引っ掻いたような跡が深く残っていた。 朝起きると、じいさんはいつものように朝食の用意をしていた。 昨夜聞いた読経の声はじいさんに似ていたが、言いつけを破った手前聞くことは出来なかった。 じいさんもまた、何も言わず僕を叱らなかった。 だけど、その二日後にじいさんは交通事故で片腕を失くした。 きっとあの鬼の祟りだと、僕は罪悪感で胸が痛かった。 結局、鬼の顔は見られなかったが、クラスの友達はみんなそのことを忘れているようすだった。 だから、わざわざこちらから伝えることもなく、もう二度と鬼の話をすることはなかった。 それからも何度か三ノ刻の鐘はなったけど、僕は布団の中で鬼が通り過ぎるのをじっと待った。 最初は執念深く僕の部屋の前で長い時間待っていたが、そのうち襖を開けていないのがわかると、とっとと次の部屋に移動するようになった。 それから数年後に病でじいさんが亡くなり、僕と両親は家を出た。 あの柱時計の事は親戚の誰もが知っていたから、誰も住みたがらず売りに出されることになったそうだ。 とはいえ、あの家は田舎で不便な場所に建っている。 今でも買い手はつかないようだ。 時々、掃除をしに親戚の人が家を訪れるみたいだが、不思議なことに柱時計の針は止まることなく動き続けているという。
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