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と、まあ。こんな具合で言い合い等も時に交えつつ、染万里と雪足はそれなりに仲良くやっていた。
そんなある日のことだった。
時間は午後五時。染万里はそろそろ眠くなってくる頃で、雪足は少し前に起きてきて元気いっぱいの頃。
玄関のインターフォンが鳴った。ちょうど染万里は夕食──雪足にとっては朝食のようなものだ。夜だけど──の最後の仕上げに入っていて手が離せない。そこで珍しく、代わりに雪足が応対することになった。
「まあ! 先生!」
甲高い声が聞こえて、思わず染万里は玄関の方を振り返った。
「雪足先生。そうでしょう? お会いできて光栄ですわ」
見たことのない女性が立っている。ふわりとウェーブがかった髪をかきあげて、結構距離のある染万里の方まで華やかな香水が漂ってきて、手にしたケージから長毛の白猫がにゃあんと鳴いた。
「私、希来利(きらり)と申します。先生の研究のこと、かねがね噂を耳にしておりましたの」
「にゃにゃあん」
「それで私、ぜひ先生のお話をうかがいたくて」
「にゃおぅん」
「ご迷惑かとは思ったんですけれど、お邪魔させていただきました」
「んにゃああ」
女性はにこにこしながらしゃべり続けている。猫の鳴き声がさながら甘いバックミュージックだ。
交代した方がいいかな、と考えて染万里は手を拭いた。相手によって相性の良し悪しはあるものの、雪足は全体的に会話が苦手だ。嫌っているといってもいい。機嫌を損ねて相手に失礼なことを口走ってしまう前に引き離した方がいい。そう考えたのだ。
が、染万里の予想に反して雪足は上機嫌だった。
「それはそれは。ようこそおいでくださった。むさ苦しいところですがお上がりになりますか。ちょうどこれから食事の予定で」
いつもの様子からは想像もつかない流暢な舌づかいで、家の中を指す雪足。あまりの変貌ぶりに、染万里は次の行動を見失って立ち止まってしまった。
あれ、これ助けなくてもいい感じ? むしろ助けない方がいい感じ?
希来利と名乗った女性は、室内とついでに染万里を一瞥して、首を横に振った。
「いえ。これからはちょっと予定があって。ゆっくりできませんの。先生さえよければ来週の水曜日、十三時頃にこのお店でランチをご一緒できません? とても有名なフレンチのお店なんです」
そう言って一枚のメモを取り出した。
「ほう」
メモを受け取った雪足は、書きつけられた文字をためつすがめつ眺めた後、大きく頷いた。
「承知しました。必ず参りましょう」
「大丈夫なんですかあ。あんな安請け合いして」
希来利が帰った後、染万里は嫌味たっぷりに雪足につっかかった。
「何のことかね」
「ランチです。フレンチ・ランチ! 先生いっつも昼の一時はぐっすり眠っているでしょう」
「ああ」
気の抜けたような返事をしてから、雪足はコンソメスープをずずとすすった。
「来週の水曜までまだ日がある。目標を据えて、徐々に生活習慣を変化させていけば不可能じゃないさ」
「へえ。そこまでして行きたいんですか」
私とチーズケーキを食べに行くのは嫌なのに。染万里は口を尖らせた。
この人、イタリアンじゃなくフレンチ派だったのかしら。どう考えても、そういう問題ではないような気がするが。
(まあ、今まで散々、昼夜逆転を直そうとしては失敗してきたわけだし)
雪足の昼夜逆転生活は、何も昨日今日始まったものではない。発明研究を最も脳がフル活動できる時間帯に行おうとした結果、その身に頑固に染みついてしまった悪癖だった。これまで、様々な人間が様々な理由でその悪癖を直そうとしたが、芳しい成果はあげられなかった。染万里自身、この生活に慣れるまでは何度泣かされたことか。
スープに口をつけながら染万里は考える。
(案外今回も大騒ぎするだけで、結局変わらないままかもしれない)
ところが。
染万里の予想に反して、今度の雪足はへこたれなかった。早朝四時に眠り、夕方四時に起き出していた生活を一時間ずつ、少しずつだが着実にずらしていったのだ。その努力のかいがあって、約束の水曜日が来る頃には、雪足の生活は夜十時に寝て朝九時に起きる一般的なサイクルへと変貌していた。
「なんだか変な気分」
フライパンをのぞき込んで染万里は呟いた。
雪足の変化に合わせて、雪足の見習い兼、助手として働く染万里の生活サイクルもまた、徐々に一般的なそれへと変化していた。
そしてその自然な成り行きとして『午前三時のおやつ』は消滅した。早い時間に寝て起きる生活は、徐々にとはいえ雪足には負担になるようで、大量のカロリー摂取、つまり染万里の作るホットケーキを所望しなくなってしまったのだ。
「まあ、別にいいんだけれど」
結果として、互いの生活リズムが基本的なものに近づいたおかげで、一緒にいる時間は増えていた。悪くない変化だ。健康的にも、精神的にも。メイビー。
「じゃあ行ってくる」
水曜日の午後十二時半。
珍しく身なりを整えた雪足を送り出して、染万里はほっと息をついた。
やりきった。やり遂げてしまった。この時間なら余裕で間に合う。あの様子なら、食事が終わるその時まで覚醒した状態を保てるだろう。その後どうなるかは、終わってみないとわからない。
「さて……どうしようかな」
そういえば雪足の予定にばかりやきもきして、自分の昼食の算段を全く立てていなかったことに染万里は気がついた。
たかが自分一人分。冷蔵庫にあるもので、適当に作ってもいいのだが。
「そうだ」
ふと思い立って染万里は手を打ち鳴らした。この機会を利用しなくていつやるというのだろう。
「ネエロ・ガッティーノ! ブルーベリーのチーズケーキ!」
そうと決まればうかうかしていられない。急いで支度すべく、染万里は慌てて洗面所へと飛び出していった。
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