サイレント・ニャー

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サイレント・ニャー

 染万里(そまり)は、どこにでもいる普通の発明家見習いである。  いや。そもそも発明家見習いというものがどこにでもいない、なんて野暮なツッコミをしてはいけない。一般的にはどうあれ、染万里自身は自分のことを何の変哲もない普通の人間だと思っているのだから、この冒頭文は決して間違いではない。はずだ。  少なくとも、染万里が『先生』と呼んで慕う人物に比べれば。  染万里の朝は大変に早い。どれくらい早いかというと、まだ朝にならないうちから始まる。  深夜二時。まだ暗いうちに染万里は起きだしてきて、支度を始める。勤務先は、自宅から南南西の方角に三百六十五回スキップしたところにある一軒屋だ。染万里は、そこで発明家見習い兼、発明家助手として働いている。 「おはようございまあす」  勤務宅に到着した染万里が、真っ先に向かうのは台所だ。  混沌とした台所を手早く片づけ、洗い物を脇に避けて冷蔵庫を開ける。コンロにフライパンを置く。ポットに水を入れてスイッチを入れる。  お湯が沸き始める頃、二階から一軒屋の主が下りてくる。ずり下がってくる黒縁眼鏡を指で押し上げ、ぱたんぱたんと配慮の欠片もないスリッパの音を響かせて。 「雪足(ゆたり)先生」  染万里の呼びかけに、足音の主はひらひらと手だけを振って答える。雪足が人並みに話すようになるのは、染万里が作る『早朝三時のおやつ』を腹に入れてからだ。  早朝三時のおやつ。  それは、夜通し研究に没頭しこれから眠る予定の完全昼夜逆転夜型人間・雪足と、雪足が寝ている間に家事を片付ける超早起き朝型人間・染万里の二人が囲む至福のひとときである。  通常『おやつの時間』といえば一般的には午後三時のことを指す。が、この家では『おやつの時間』とはすなわち午前三時のことなのだ。 「できましたよ先生。手を洗って、座ってくださいな。今、ラズベリーティーを入れますから」  猫背の雪足がのろのろと階段を下り、大儀そうに食卓の椅子を引っ張って腰を落ち着けるまでに、染万里はホットケーキを次々とひっくり返し、バターをたっぷり塗り、はちみつをかけてお皿に積み上げていく。雪足は痩身だが大食漢だった。段積みホットケーキの厚みが十センチ以上いないと、後で文句を言う。  最後にいい香りのするラズベリーティーをカップに注いで、染万里はやっと自分も席にお尻を下ろした。  いただきますはいつも言わない。染万里が両手を合わせる前に、雪足はさっさとフォークをつかみ勝手に食べ始めているからだ。 「猫の鳴き声はね、実は人間向けの言葉なんだよ」  半分ほどホットケーキを平らげたところで、雪足がやっと人間らしい言葉を口にした。実験で消費したカロリーが補給され出したらしい。 「猫同士で会話する時は彼ら、人間に聞こえない高周波数でやりとりするんだ。つまりいつもは、我々人間を気遣ってくれているということだな、うん」 「ああ、サイレントニャーです?」  飼い猫のヒゲスケが雪足の足首に身体を擦りつけ、甘えるような声でにゃーんと鳴いている。ホットケーキを分けろと言っているのだ。バターましましで。はちみつは不要と。が、二人ともこの要求に応える気はない。自分の分を口に運ぶので大忙しだ。  そう。これだ。人間に『話しかける』時だけ猫はにゃんと鳴く。  もともとネズミ等の小動物を捕って暮らしていた猫は、ネズミの鳴き声のような高周波数の音を聞き取ることができる。猫同士で会話する時もこの高周波数の声を使っていて、この音は人間には聞き取れないので、まるで無音で鳴いているように見えてしまう。だから、 「サイレントニャー。そうそれ」  がつがつとホットケーキにかじりつきながら雪足が頷く。 「だがね。それでは不十分だとは思わないかね」  雪足の言葉に染万里はきょとんとした。 「不十分? 何がです」 「僕達と猫とのコミュニケーションが、だよ」  不服そうな顔でホットケーキにフォークを突き刺す雪足。 「考えてもみたまえ。僕らはこんなに愛し合っているというのに、彼らの言葉が人間には感知できないなんて、そんな悲しいことがあっていいと思うのかい?」  熱のこもった演説だったが、口にべっとりとはちみつが付いているので全く様にならない。  雪足はいつもこうだ。もともと常人には理解しにくいスイッチの入り方や切れ方をする人間だが、こと猫のことになると熱くなる。重度の愛猫家なのだ。 「はあ」 「だから僕は今、サイレントニャーを翻訳する機械を研究しているんだ。絶対発明して、全ての猫言語を理解できる世界初の人間になってやる」  ごくんと音をたててラズベリーティーを飲み干した後で、雪足は満足げに鼻息をたてた。 「しかし、やはり寝る前の糖分補給はホットケーキに限るね」 「そうですかあ?」  正直、自作のホットケーキに飽き始めていた染万里は首を傾げる。 「私はネエロ・ガッティーノのブルーベリーチーズケーキが食べたいけど」 「なんだいそれは」 「おいしいって評判なんですよ。ここの近くの、赤い屋根の小さいイタリアンレストラン。パスタもピザもいいんですけど、一番人気はなんていったって数量限定、ブルーベリーぎっしりのレアチーズケーキで、午後一時半から販売し始めて午後三時には売り切れちゃうらしいんです」 「ふうん」  さっきまでサイレントニャーについて語っていた情熱はどこに行ってしまったのか。至極どうでもいいという顔つきで相づちを打つ雪足。 「食べに行きゃいいじゃないか」 「行けないでしょう。一時半から三時ですよ、昼の。先生寝ているじゃないですか」  あそこテイクアウトは受け付けていないし。ラズベリーティーに砂糖をこぼしながらぼやく。 「なんだ、僕と行くっていうのか」  想定外だと言いたげに目を見開いた後で、雪足は盛大に顔をしかめた。 「そりゃ無理だな。君一人で行けば」 「いやいやいや、無理でしょ」  昼夜逆転生活の雪足に合わせているせいで、染万里の体内時計は一般人のそれと五時間ほどずれてしまっている。午後三時といえば夜の八時くらいの感覚だ。そんな時間に甘いケーキを食べて、寝て、さらに起きた後すぐにまたケーキを食べるなんて。 「リンゴ腹になっちゃう」 「別に午前の方は合わせなくてもいいんだぞ。ホットケーキさえ焼いてくれれば」 「嫌です」  自分のことしか考えられない天才の顔をじろりとにらむ。  起き抜けの空腹時にカロリーたっぷりのケーキを焼かせて、しかも食べなくてもいいなんてそんなこと言えるなんて。それに。 「あ、そういえば先生。また私の目を盗んでコーヒー浴びるように飲んだでしょう」  話題を変えると、猫背がびくりと怯えた猫のように震えた。 「何のことかな」 「しらばっくれても駄目です! ゴミ箱に捨てられているコーヒーフィルターがべらぼうなので!」  そう。この雪足という人物は、一人で放っておいたら何をしでかすかわからない。この人物に一般的な感性やモラルを求めてはいけないのだ。  それにそれに、と染万里は考える。  この午前三時のおやつがなくなったら、自分と雪足が一緒に過ごす時間が減ってしまうではないか。この後、雪足は眠りにつき夕方までは起きてこない。一方の染万里はこれからが活動時間で、日が暮れる頃には眠たくなってしまう。ほぼ完全なすれ違いなのだ。  その事実に、この人はちゃんと気づいているんだろうか。
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