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 彼にとっては余計な部分まで全てを伝えると、店の中は更に静かになっていた気がする。途中でコーヒーを持ってきた店員さんも若干引き気味だったような。自分の中ではもう整理がついた話だけど、聞かされた方は色々と想像も捗るし、私みたいなのと同じ店に居ることが嫌な人も居るかもしれない。良いお店なのに悪いことをしたな、と思いつつ、生クリームの乗ったコーヒーを口にする。 「……その男を殴り続けていた奴は、たぶん僕です。覚えてはいませんが。バイトの終わりが遅くなって、人気の無い路地に居たんでしょう。聞く限り、三笠さんにも暴行を。すみません」  頭を下げる彼を、私は慌てて手を振って止める。 「そうじゃなくってね。じゃあ、今謝ってくれたから私の分はそれでチャラ。オーケー?」  納得行かなそうにしている彼に、私は「これから君に嫌なこというけど、それも見逃して」と追加でオーダーする。取引は成立したようだ。彼は納得いかないという表情のまま会話のボールをこちらに渡してくれる。 「あの日の後、君の姿を思い出して、私はこう思ったんだ。私は彼ほど壊れてはいないって。私の都合。そう見えて、だから私は、色々見限らないでみようって、今の生活を続けてる。君は何もしてないと思うかもしれないけど、こうして君の前で話している私は君が支えてくれていたんだよ。だから、私は君にありがとうって伝えたかった。遅くなってごめんね」  そう言って笑いかけると、彼は殆ど手を付けていないコーヒーの黒に視線を落とす。  彼がポツリと言葉を作る。 「……僕は、悪魔だって、母にそう言われました。僕自身もそう思います。あの人が僕に包丁を突き立てた時のこと、今でも覚えている。毎日毎日、別人のように振る舞う僕を、母は心底から恐怖していた。父は、少なくとも表面上は冷静に受け止めて、精神科や幼児期特有の兆候など調べてくれていたけど、母は駄目だった」  コーヒーに波を立てるように彼がカップを揺らす。 「大きくなって、夜更かしをすることができるようになって気づきました。丑寅の方角が鬼門と呼ばれるけど、丑から寅へと変わるのが午前3時。その時間、僕には鬼が入る。本当に鬼なのか、悪魔なのか、幽霊の類かは知らない。ただ、僕でない何かが確かに僕の中に入って、ぐちゃぐちゃにかき乱すんだ。感情が同時にいくつも内に湧き出してどうにもならない。落ち着きを得るタイミングでその日の僕が確定する。昨日は泣き虫だった僕が、今日は大人のような落ち着き払う。そんな姿に母が怯えるのは、きっと父より、母の方が僕に接する時間が長かったからだと思います」  自重するように嗤う彼。午前3時。それは彼が家に居なければならない時間だ。 「バイト。3時までに家につけるようにって、そういうこと?」  鬼や悪魔なんて信じがたい話だけど、笑って流せないのは、話す彼の表情とあの時の彼の異常な感情の発露のせいだ。彼は今、彼にとっての真実を語っていると思う。 「店長に聞いたんですか? はい。家で、じっと落ち着いて鬼を待つんです。感情を揺さぶらずに、落ち着くまで耐えれば、感情を動かさない限り、その日の間は安定しますから。それで日中から次の鬼門まで余計なことを考えないように、ずっと仕事で忙しくしているんです。忙しさの中で決まったルーチンをこなしている限りは、あまり感情は動かないものですから。そうしていつもの僕を作るんです」 「それじゃ、君は、毎日ただ忙しくして、何も感じないように生きてるってこと? 自分のために時間を使わないって」 「はい。それが一番良いんです。僕が真っ当に人間をやっていることが母にとって一番の安心ですから」  笑みすらも浮かべる彼が、無性に気に入らない。それは多分、勝手に助けられたと思っている私が、彼のことを勝手に不幸だと思っているからだ。でも、彼は、今の生き方を受け入れていても、満足はしていない。そう思いたい。 「さっきの、チャラって言ったの、無しにしてもらっていい?」  私が少し剣呑な雰囲気でそう言うと、彼はいつもの無表情で「まあ、別に」と無味無臭な返事をしてくる。 「今度も、私とこのお店来て。それからその次も。とりあえず、一年分、君の予定に予約入れて。それであの時のことはチャラにしてあげる」  彼の表情が少しだけ怪訝に歪んだ。何を言い出したんだ、この女は。そんなことを言いたげな顔に満足して言ってやる。 「君のその無表情、私が剥ぎ取ってやる」
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