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アラームのスヌーズを何回か無視して、嫌々起きるいつもの朝。身体の下で痺れた手をもぞもぞと出して隣を探ってみるも、受け止めてくれるのは空っぽの布団だけだ。青白く、爽やかな香りのする夢を見ていた。その夢のみぎわで今日は遅番だからなんて答えたような気もするが、なにしろ寝ぎたない自分のことだ、ほんとうにただの夢だったのかもしれない。
寝室を出ると、静まり返ったリビングはしかし既にカーテンが開け放たれており、朝日と呼ぶにはいくぶん高い太陽の光が、カーテンレールに吊るしたサンキャッチャーをきらきらときらめかせている。これをつい買ってしまった箱根旅行から、気付けば半年くらい経っているんじゃないかな。
リビングだけでなく、洗面所のタオル、洗濯機の中のシャツ、それに、テーブルの上の濃紺の皿――彼の名残はあちこちにある。
ラップのかかった皿の上に無造作に乗った、小さな紙切れを摘み上げる。
「有加里へ」
水色の罫線の上に踊る、黒いインクの線。跳ねや払いが少し大げさな癖字は、それでいてバランスが妙に整っていて、彼を良く表しているような気がする。こんな時の書き置きくらいでしか見ることのない彼の字が、有加里(ゆかり)は好きだった。
「味噌汁は温めて……はーい」
癖字に返事をしながら、皿にかかったラップを端から慎重に剥く。
今朝のメニューは、焦げ目のついた厚切りハムに、ほうれん草入りの卵焼き。それから、昨夜の残りのきんぴらごぼう。朝の弱い自分のために、ご飯は小さなお握りになっている。片手鍋の中の味噌汁の具は、豆腐とわかめだ。
わざわざ用意してくれなくていいと言っても、どうせ作るのだから一人分も二人分も変わらないとけんもほろろで。自分は自分で、遠慮なんかしてみせても起きるのは決まって彼より遅く、その頃にはもう、ささやかながら贅沢な朝食が用意されている。
彼の泊まった翌朝は、有加里にとって特別だった。
つやつやと光る汁椀に、よく温めた味噌汁をよそう。先日新調したこの揃いの椀は夫婦椀と銘打たれていて、いまだにそれが気恥ずかしいのだけれど。
両手を合わせ、口の中で呟く。
「いただきます」
英記(えいき)と出会ったのは、知人に招かれて参加したバーベキューだった。郊外のキャンプ場に独身男女が集まって、当然ながら合コン要素なんかも含まれた、ある週末のごくありふれた出来事。早々に輪から外れて、ハッチを上げたトランクをベンチ代わりにちびちびとジュースを減らしていた自分に、その車の持ち主だった彼が声をかけた。出会いとしては悪くはなかったかもしれない、だけど、そこからまさか自分の恋愛が始まるなんて思ってもみなかった。
遅番の日は、十時過ぎにアパートを出る。のんびり歩いても二十分かからない程度。公園を抜けて歩道橋を渡った先の、白いレンガの建物が有加里の仕事場だ。裏口から事務所へ入り、エプロンをつけて、タイムカードを押す。スチールの重い扉を開ければそこは、効きすぎた空調、たくさんの人の静粛、紙とインクのにおいに満たされた、図書館のカウンターへつながっている。有加里は市立図書館のしがない司書だ。
大学を卒業して、そのまま地元には戻らずに就職した。地元へ戻らなかったことにも、ここへ残ったことにも、深い理由はない。人並みに就職活動をした結果、司書としての働き口が見つかったのがこの街だけだったのだ。世は長い長い不況、希望の職に就けるだけで奇跡というもの。もっとも公務員でもなし、市立図書館の司書など待遇としては嘱託職員のようなもので、与えられた仕事を淡々とこなし薄給を得て、慎ましい日々を送るだけだった。
配架作業がひと段落した頃には、昼休憩になる。
朝食を食べた日は、昼になってもあまり腹が減らない。コンビニで買った菓子パン一つをコーヒーで流し込み、一日一本と決めている煙草を吸いに喫煙所へ向かう。
喫煙所と言っても、裏口の狭いひさしの下に、スチール製のベンチとその脇にスタンド灰皿が置いてあるだけの簡易スペースだ。人気の少ないここは、有加里にとって格好の休憩スポットになっている。
うららかな午後、空は明るい薄曇りで、日差しもちょうどいい。メンソールの軽い煙草を吹かしながら手慰みにスマホを弄っていると、ヴー、手の中で短く震えた。
「お疲れ。ちゃんと起きた?今、休憩中?」
英記からだ。
「うん」
とだけ返すと、即座に既読の文字が浮かび上がる。
「えーきは?もう着いた?」
スマホの中でだけ、有加里は彼を「えーき」と呼ぶ。ひらがなと長音記号の組み合わせが可愛いと思う。
「とっくに着いてるよ。国内出張だぞ」
にやりと笑うスタンプ。実物はもっと品良く笑うけど。
商社勤めの英記は、一年を通して出張が多い。今日から三日間は、大阪へ出張だと言っていたっけ。
「えーき、何時に起きたの?」
「五時前かな」
始発の新幹線に乗るためには当然の時刻とはいえ、眩暈がするようだ。朝に強いというだけで、手放しで尊敬できるというもの。気が遠くなりかけたところを、彼の次の一言が引き戻す。
「今朝のゆかり、可愛かったよ」
煙草の灰がぽろりと落ち、慌てて灰皿の上へ持っていく。
「なにそれ」
「おしえない」
寝起きの悪い有加里を面白がって、しつこく話しかけたり、ちょっかいを出したりする英記だ。今朝もどうやら揶揄われていたらしい。
「あ、ごめん、もう行く」
「タイミング合ってよかった」
「また連絡する」
「じゃあ」
「あいしてるよ」
続けざまにメッセージが現れて、画面の向こうの英記の存在感が遠のく。未読のまま浮かんだ了解のスタンプをなんとなく眺めながら、短くなるまで大事に吸った煙草を捨て、有加里は髪を掻き回した。
「あ」
喫煙所に一人でよかった。
間抜けな声を出してしまった上に、今、たぶん、赤くなっている。
そうだ。一回り大きな手に、もっと優しく、髪を掻き回された。
「ゆかり、今日、仕事は?早番?遅番?」
「……うん」
「うん、じゃなくて。早番?遅番?」
「……おそばん」
「俺もう出るから、ちゃんと起きろよ」
「……うん」
「ゆかり、俺のこと好き?」
「……うん」
「愛してる?」
「……うん」
「誰よりも?世界一?」
「……うん」
「俺も」
それから、シェービングジェルのライムの香りが近づき、顔じゅうに唇が降ってきて――夢うつつに、ずいぶん濃厚なキスをしたと思い出す。
今さらになって唇を擦ってみたところで、メンソールの残り香がするだけ。傍目に、いや、傍目なんてものがあったらそれこそ憤死してしまうけれど、二人だけの世界に浸って恥ずかしいことをしたものだ。自分はともかく、はっきり意識があった英記は性質が悪い。
最初はこんな人だと思わなかった。
二歳年上の有能な商社マンで、背が高くて恰好良くて、おまけに料理上手で。バーベキューの時、誰もが舌つづみを打ったスペアリブを漬けてきたのは英記だった。
あの日以来、メールで会う約束をして、何度か会って確かめて、部屋へ招いて。彼が恋人にだけとんでもなく甘い男だと知っているのは、当事者になったからだ。その事実に気付くと、やはり、頬が熱くなる。
「心境の変化?それとも環境の変化?」
「え?」
不意に背後から声がかかり、驚いて振り向く。
「ごめんごめん、おばさん詮索しちゃった」
同僚の一人、母親と同年代のベテラン司書は、既にひらひらと手を振りながら立ち去ろうとしている。トートバッグに詰めようとしていた本のことを言われているのだと気付き、
「そんなんじゃないですよ」
焦って発した言い訳は果たして届いたのか、最後はため息となって逃げていく。
以前、児童カウンターの同僚との世間話の中で、物の本は大人向けの入門書よりも子供向けの指南書の方が参考になる、という話になった。その時は工作の話をしていたと思う。言われてみれば本当の初心者にとって、「初心者の」と冠された大人向けの実用書より、もっと噛み砕いて簡単な方法を説いている子供向けの本の方が実用的だなと、妙に納得したものだ。最初に手に取ったのはだから、保護者向けの注意事項が書いてあるような低年齢向けのものだった。わずかな、それでいて確かな成功体験を得て、対象年齢を徐々に上げていき、一般書籍にまでたどり着いた。
十九時十五分、定時ぴったりにタイムカードを押して、仕事場を後にする。
元々、食事にはあまりこだわりのないタイプだった。食も細く、大学進学を機に一人暮らしを始めてからは、腹が膨れればいいというような食生活だった。料理上手の恋人ができたあとも、彼と会えない日は出来合いや冷凍食品ばかりだったし、今も本質は変わっていないと思う。
スーパーを経由して、アパートに帰る。
少し前まで、エコバックから出すのは惣菜コーナーの弁当だった。
メモの通りに買ってきた食材を並べ、付箋を貼ったページを開く。
変わったのはたぶん、だから、心境なのだろう。
今のところ成功率はせいぜい五割、偶然の確率と変わらない。それでも諦めずにいる理由は、言葉にしてしまえば陳腐で気恥ずかしいものだった。
予定通りに出張が終わるという知らせを受けたのは、日付の変わる寸前のことだ。
「明日、直接そっち行っていい?」
「うん。夕飯は?」
「一緒に食べよう。なんか作っといてよ」
仕事の愚痴は言わない彼だったが、この言い方は少し疲れているのだろう。
「うん、わかった」
「辛口がいいなあ」
それと、有加里がカレーくらいしかまともな料理を作れないことを知っていて、英記は時々こういう言い方をする。甘口派の有加里との折衷案で、いつもは中辛で妥協させられている彼だ。スピーカー越しの穏やかな失笑を聞きながら、辛口のルーを買って帰ろうと決めた。
有加里のカレーに特別なことはない。
にんにくと生姜をすりおろして入れるのと、英記のためにガラムマサラを用意しているくらいだ。玉ねぎを炒めて、今日はたまたま牛肉、あとはにんじんとじゃがいもを入れて煮込むだけ。以前に飲み残しの野菜ジュースを入れてみたらどことなく上等な味になったような気がして、最近は適当な野菜ジュースを一缶入れている。どれも、工夫というほどではないだろう。
ピンポーン、玄関のチャイムが響き、ガチャリとドアノブが音を立てる。
飛び出したようなタイミングにならないよう一呼吸置いて出迎えると、最初に現れたのは小ぶりのスーツケース、次にその取っ手を下ろしながら、英記が入ってきた。
スーツに包まれた均整の取れた身体、涼しげな笑顔。
「ただいま」
「おかえり」
「ただいま、有加里」
「聞こえたって。返事したでしょ?」
「いいから、もう一回」
「……おかえり」
ただいま、と噛みしめるように呟いた英記が両腕を広げるので、促されるまま近づくと、すぐに抱きすくめられる。有加里の背中と腰に腕をしっかりと回し、胸の中に納めて、チークダンスのようにリズムをとりながら横に揺れる。スーツの襟に額をすりつけると、よそよそしい外のにおいが鼻先をくすぐった。
「有加里」
「なに?」
「会いたかった」
「……うん」
「それだけ?」
「……俺も、だよ」
一年ぶりの再会じゃあるまいしと思わなくもないけれど、彼はいつでもこんな感じ。有能な商社マンは、玄関をくぐればとんでもない甘えたがりの寂しがりに変貌する。たった三日の出張が一年にも感じられるような相手だと思われているうちが華だなんて思っていると知れたら、どんな顔をされるだろう。
「英記、会社寄って来たの?」
「ああ、うん。よくわかったな」
「社員証、ぶらさがってる」
「……ほんとだ」
体温が遠のく。英記は首にかかったホルダーの青い紐を指で摘んで、驚いたように目を瞬いた。それから、くいっと片眉を上げて、口の端でにやりと笑う。
「慌ててたからね」
「何かあったの?」
「早く有加里に会いたかった」
「……もう。すぐそういうこと言う」
歯が浮くようなせりふは、何十回、何百回聞いても慣れない。英記の胸を押し返して踵を返そうとすると、
「ほんとのこと」
反射でかざした手のひらにまず口付けられ、その手がゆっくりはがされて、唇どうしが触れた。
押印するように柔らかく重ね、離して、有加里の肩越しにリビングを見て笑う。
「いいにおい」
「リクエストのカレーです」
「辛口にしてくれた?」
「うん」
「お。やった」
「すぐ食べる?先に風呂?」
「腹減ったから、先食べるかな。なあ、なんか夫婦みたいね」
「はいはい」
「あ、急に冷たいんじゃない?」
そう言いながら、熱くなった耳たぶをつついてくるのだからお見通しだ。英記はスーツケースを玄関に置き去りのまま、背広を脱いで、社員証を外して、ネクタイをはずし襟元のボタンを外し、手早く軽装になっていく。洗面所からの水音とうがいの音を聞きながら、ピ、コンロのスイッチを入れて温め直し、カレー用の白い皿に米をよそう。
「何飲む?」
「ビールある?」
「ある」
スーパードライとウィルキンソンのジンジャーエールを一本ずつ冷蔵庫から出す。ほどほどに酒が好きな彼と、下戸の自分。煙草は吸わない彼と、喫煙者の自分。カレーの好みも違うし、仕事も、遊びの趣味も、違うことばかりだ。
腕まくりしたワイシャツとスラックスだけのすっかり家モードになった英記が、テーブルの上をじっと見て、それから、有加里を見る。
「作ったの?」
売り物でないことは一目瞭然だろう。野菜の切り方は不揃いだし、今さらながらマヨネーズを入れすぎたかもしれない。それでも過去の試作よりはましな仕上がりなのだ。
「けっこう……うまくできたんだど」
今夜のメニューは、辛口カレーと、教科書通りのポテトサラダ。
「うまそうだ」
「英記のみたいには、おいしくないと思う」
「バカだな」
「……そうかな」
「嬉しいよ」
彼はそれだけ言って、向かいの椅子に腰掛けた。
黄金色と琥珀色の液体を湛えたグラスを、静かに合わせる。
「いただきます」
ビールを一口飲んだあと、最初にポテトサラダを口に運ぶ。
「ん。うまい」
よかった。グラスの縁に唇をつけながら頷く有加里に、
「うまいよ」
もう一度言って。二口、三口とポテトサラダを食べてから、今度はカレーをスプーンいっぱいにすくってかぶりつく。サラダにじゃがいもを使ったのに、カレーにも入っているなとか、やはり今さら気づく。
「うまい」
らしくもなく、咀嚼の間から行儀悪く言うから、笑ってしまった。
「もういいって」
「よくない。だって有加里が、俺のために作ってくれたんだから」
「俺のためでもあるよ」
「いや、俺のためだね」
なぜか頑固に言い張って、また大きな一口。つられて軽くすくって食べると、いつもは買わないスパイスたっぷりのルーの刺激が、ぴりりと舌に走った。
「なあ、有加里」
「なに?」
「俺たち、そろそろ一緒に住もうか」
グラスに伸ばしたかと思われた手が、それを素通りし、有加里の手に重なる。うっすら腕時計の跡がついた、左手首。
「まあ、今も半分、一緒に住んでるような感じだけど。ちゃんとさ、二人で部屋探そう」
長い指が甲を撫で、それから、指を絡め取って、ぎゅっと握る。
いろんなところが違う自分たち。
彼にはきっと、もっとふさわしい人がいると思う。
自虐したいわけじゃない、でも、いつの間にか。彼の気持ちを留めておけるなら、彼に少しでもふさわしくなりたいと思うようになっていた。苦手な料理を克服したいし、煙草も一日一本まで減らせたのだからこのまま辞めたい。少しくらい長いほうがいいと言われたのを真に受けて、髪型も変わった。目の前の恋人が、内心ではいつもこんなことを考えていると知っても、彼はまだ自分を好きでいてくれるだろうか。
「おーい、有加里、なんか答えてくれない?」
「……うん」
「それじゃわからないだろ?」
「うん。よろしく……お願いします」
俯いて言うと、彼の指が額を軽くつつく。
顔を上げると、いつものように涼しげな笑顔でも、甘える時の蕩ける顔でもなく、眉をハの字に下げて目元をくしゃっと細めた英記の顔が正面にあった。
「大事にする」
「……もうされてるよ」
「もっと」
「……うん。俺も」
しん、と満ちた沈黙。笑い出しそうだ、と思った時にはもう吹き出してしまい、つられてにやりと頬をほころばせた英記と二人して笑い合いながら、どちらともなくまたカレーをすくう。
「有加里のカレーが一番うまいよ」
「そう?俺は英記のカレーが一番好きだな」
終わり
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